デリーは12世紀に建設された都市ですが、インドの都として長い間特別な地位にあります。
インドの首都はデリーかニューデリーか問題についてですが、外務省のサイトは「ニューデリー派」で、教科書は「デリー派」で、首都をどちらにするかは派閥があります。
ただ、「デリーとニューデリー」は「東京都と千代田区」に相当する関係で、デリーが首都としてしまって問題ありません。
- 12世紀デリー建設
チャウハーン朝がデリーを首都として建設した。
- 1192年ゴール朝による征服
イスラーム政権のゴール朝が征服した。アイバクがクトゥブミナールを建設した。
- 1206年〜デリー=スルタン王朝の首都に
アイバクが奴隷王朝を創始。以降、イスラーム政権でデリーに都をおいた5つの王朝をデリー=スルタン朝という。
- 1526年ムガル帝国創始
バーブルはムガル帝国(都・アグラ)を創始。
フマユーン廟(wiki) 息子のフマユーンは都をデリーに移した。
しかし、次のアクバルは都をアグラに戻し、デリーは荒廃した。
- 1648年ムガルの首都へ 〜オールドデリー〜
シャージャハーンの居城・デリー城(wiki) ムガル皇帝シャージャハーンが都をデリーに戻し、再建した。「オールドデリー」とはこの時に建設された区域のことである。
- アグラかデリーが都の時期
- 1707年〜ムガルのデリー政権化
アウラングゼーブの死後、ムガル帝国は急速に衰退。支配領域がデリー近辺にしか及ばなくなったので、必然的に都はデリーに固定された。
- 1771年マラーター王国の勢力下に入る
- 1803年イギリスが支配下に入る
第二次マラーター戦争に勝ったイギリスがデリーの支配権を獲得した。
- 1858年ムガル帝国の滅亡
降伏するムガル皇帝(wiki) 1857年にインド大反乱が勃発。しかし、イギリスが制圧に成功。この時ムガル皇帝がビルマに亡命したことで、実質的にすでに滅んでいたムガル帝国は完全に滅亡した。
- パンシャーブの地方都市へ
ムガル滅亡により600年以上担ってきたイスラーム政権の首都から、パンシャーブの一地方都市に転落した。
- 19世紀末交通・流通の結節点として成長
イギリス統治下で鉄道が敷かれ、交通・流通の結節点として再び栄え始めた。
- 1911年イギリス領インドの首都へ 〜ニューデリー〜
イギリス領インドの首都・コルカタが ベンガル分割令で政治的に急進化。もともと、コルカタは東に寄りすぎていたのもあって、イギリスは新首都計画を立案。
ニューデリーが建設され、インドの暫定首都となった。
- 1931年正式に首都に
- 1947年インド独立
イギリス時代を同じく、デリーを首都とした。
- 2000年代インド第二の都市へ
産業の発展により急成長し、人口がコルカタを抜いて、インド第二位の都市になった。第一位はムンバイである。
- 2005年世界最大のヒンドゥー教寺院完成
BAPSスワーミーナーラーヤン教の教祖が構想。二代目が計画を実行したアークシャルダーム寺院が完成した。
2007年、世界最大のヒンドゥー教寺院としてギネスブックに認定された。