ドイツの歴史まとめ

国々の歴史
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 ドイツの歴史を見ていきましょう。

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1. 古代:ゲルマニア

先史時代

ゲルマニア 地図

 先史時代には、ゲルマン人・ケルト人などが原始的な文化を築いた。

 地中海で栄えてたローマ帝国では、ゲルマニアと呼ばれた。

 ライン川とドナウ川がローマ帝国との境界だった。ドイツ西部には下ゲルマニア属州が築かれ、都は今のケルンにおかれた。

フランク王国

フランク王国 地図

 4世紀、西欧各地でゲルマン民族の国が勃興する。ガリアで誕生した最大のゲルマン国家がフランク王国だ。

 カール大帝は、フランス・ドイツ・イタリアを支配下に収め、統一した。カール大帝は、本拠地をアーヘンにおいていた。アーヘンはオランダ・ベルギー国境近くのドイツである。

東フランク王国

 カール大帝の死後、最終的にフランク王国は、870年東フランク王国・西フランク王国・イタリア王国に分割。それぞれが現代ドイツ・フランス・イタリアの原型になっていく。

 911年以後、東フランク王国では選挙によって王を選ぶ選挙王政が始まる。

2. 中世:神聖ローマ帝国

神聖ローマ帝国 〜古代ローマ帝国の復活〜

神聖ローマ帝国 地図 

 900年代中盤のイタリア。情欲に溺れた教皇ヨハネス12世により、政治が乱れていた。

 政治的庇護者を欲したヨハネス12世は、962年東フランク王オットー1世にローマ皇帝の帝冠を授けた。

 理念的には古代ローマ帝国の復活であり、ドイツとイタリア北部にまたがる「神聖ローマ帝国」が成立した。

叙任権闘争 〜教皇の勝利〜

 神聖ローマ皇帝は、キリスト教の司教の任命を通じて、帝国を統治しようとする(王国教会体制)。

 しかし、教会の堕落を憂えた教皇グレゴリウス7世は内部改革を進め、神聖ローマ皇帝の司教の任命権を認めなかった。

 対立する皇帝ハインリヒ4世を破門した。貴族の離反を恐れた皇帝は、カノッサ城の前の雪の中で三日三晩土下座し、許しを乞うた。

 こうして、王国教会体制は崩壊した。

3. 中世:帝国の分裂

ドイツの分裂

 神聖ローマ皇帝の力は弱まり、都市や領邦が自立化していった。

ケルン

ケルン大聖堂

 例えば、司教座都市ケルンも自立化した都市の一つだ。ゴシック様式のケルン大聖堂が建設されている。ケルン大聖堂は約156m。

ハンザ同盟

リューベックのホルステン門

 都市が自立化すると都市同盟が作られ、他の政治主体に対抗した。

 リューベックを盟主とするハンザ同盟は、北海・バルト海の交易を支配する都市同盟に発展した。

金印勅書 〜地方分権化〜

 ドイツの地方分権傾向は、1254~73年、神聖ローマ皇帝がいなくなった大空位時代にさらに進んだ。

 1356年カール4世の金印勅書により、神聖ローマ皇帝が選挙によって選ばれることが明文化され、地方分権はさらに進んだ。

神聖ローマ帝国の首都

 神聖ローマ帝国は特定の首都を持たなかった。その時々に皇帝がいた場所で会議が開かれた。これは「旅する王権」と言われる統治方法である。

 しかし、大空位時代以後は、皇帝の元の本拠地で会議が開かれるようになった。

プラハ

 14世紀、ボヘミア(今のチェコ)出身のカール4世は、プラハを大々的に整備。ローマ・コンスタンティノープルに並ぶヨーロッパ最大の都市に発展した。

ベロット、18世紀のウィーン、1760年ごろ

 ちなみに、カール4世と同時期にハプスブルク家のルドルフ4世(建設公)ウィーンを発展させた。ウィーンは、15世紀以降、神聖ローマ帝国の実質的首都となる。

 現在の首都ベルリンは、まだ発展していない。

ドイツの都市 地図

4. 近世:オーストリアと宗教戦争

ハプスブルク帝国

ハプスブルク帝国 地図

 ハプスブルク家はスイス出身の貴族である。1273年に神聖ローマ皇帝になったルドルフ1世以来、徐々にオーストリアが本拠地になっていく。

 1438年より、神聖ローマ皇帝位はハプスブルク家の世襲が始まり、ウィーンが神聖ローマ帝国の首都となる。

 また、結婚によりマクシミリアン1世が当時最大の経済大国ネーデルラント(今のオランダ)を世襲すると巨大な経済力を手にした。

 さらに、大航海時代を席巻し「陽の沈まぬ国」となったスペイン王位も継ぎ、ヨーロッパ随一の王家となった。

 こうして、ハプスブルク帝国が誕生した。

宗教改革

クラナハ『ルターの肖像画』、1529年

 スペイン王家も兼ねたカール5世だったが、社会は大きな変化の時期に差し掛かっていた。宗教改革である。 

 当時、ローマ教皇は天国に行ける有料切符(免罪符)で金儲けをしていた。

 ローマ・カトリックを徹底的に批判したのが、ルターである。聖書を権威とするプロテスタントを創始した。

 神聖ローマ皇帝としてカトリックを維持したいカール5世は反対。しかし、1555年アウクスブルクの宗教和議プロテスタントを認めた

 しかし、これは一時的であり、カトリックとプロテスタントの宗教対立は継続した。

1618〜48年:三十年戦争

第二次プラハ窓外放出事件

 1618年、カトリックを強制する神聖ローマ皇帝フェルディナントに反発して、民衆が皇帝の使者をプラハ城3階から地面に投げ落とした。この事件は(第二次)プラハ窓外放出事件と呼ばれる。

 皇帝は戦争を開始。近隣諸国の介入もあり、1648年ヴェストファーレン条約での終結までに、30年を要した。

 この戦争を三十年戦争と呼ぶ。

カロ『戦争の惨禍』、1632年

 三十年戦争でドイツの人口は、2000万人から1600万人に激減。ドイツの発展は遅れた。

 ヴェストファーレン条約では、プロテスタントと地方貴族の主権を認めた。高校教科書では「帝国の死亡診断書」とされる。しかし現在この見方は否定されている。

5. 近代:オーストリア and プロイセン

オーストリアの多民族国家化

 神聖ローマ皇帝を世襲するオーストリア=ハプスブルク家は、フランスオスマン帝国と戦った。

 オーストリアは絶対王政フランスを撃退。オスマン帝国からハンガリーを奪った。

 ウィーンには外観はバロック様式、内装はロココ様式のシェーンブルン宮殿が建造された。

シェーンブルン宮殿

プロイセンの台頭

 三十年戦争の惨禍を受けなかったブランデンブルク=プロイセンが台頭。

 1701年、神聖ローマ皇帝から王位を与えれられてプロイセン王国が誕生した。

 プロイセンは絶対王政的統治の下で急激に国力を伸ばした。

グラフ『フリードヒリ2世』、1781年

 特に、1740年に即したフリードリヒ2世は、啓蒙専制君主と呼ばれ、「上からの改革」を断行。「君主は国家第一の下僕である」の名言を残した。

 ポツダムにはロココ様式のサンスーシ宮殿が建造された。また、1791年にはベルリンのシンボルとなるブランデンブルク門が建設された。

サンスーシ宮殿
ブランデンブルク門

1740年:プロイセンvs.オーストリア

 神聖ローマ帝国内で二大勢力となったプロイセン・オーストリアは1740年ついに衝突。

 オーストリア継承戦争七年戦争を戦った。

 戦争はプロイセンの勝利。プロイセンは大国の仲間入りを果たした。

 敗れたオーストリアはマリア・テレジアの下で近代化を急いだ。

神聖ローマ帝国の解体

ダヴィッド『ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト』1800年

 1789年フランス革命が勃発。王政が打倒された。そして、フランス人民の英雄ナポレオンが出現した。

 ドイツはナポレオンの侵攻の前に屈服1806年に、神聖ローマ帝国は解体。800年以上にわたる歴史に幕を閉じた。

 フランスに侵略されたプロイセンでは、ナショナリズムが高まり、統一への機運が盛り上がりはじめた。

6. 近代:ドイツ統一

オーストリアによる国際的反動体制

 ナポレオンの流刑後、ヨーロッパの再編のためのウィーン会議が招集された。

 オーストリア主導で旧来の伝統的秩序を維持する国際的反動体制ウィーン体制が成立した。

 なぜなら、フランス革命は「王権の打倒」「民族の自立」を意味するので、多民族国家オーストリア帝国とは相容れないからだ。

 しかし、1848年、ヨーロッパ各地で革命が起き、ウィーン体制は崩壊

ちなみに、1848年はドイツ人カール=マルクスが『共産党宣言』を発表した年でもある。

プロイセンによる国内統一

ドイツ帝国 オーストリア=ハンガリー帝国 地図
1871年の地図

 国際政治をコントロールしたオーストリアに対して、プロイセンは国内の経済統合を推進した。1834年ドイツ関税同盟が成立。プロイセンを中心とした市場が出現した。

 プロイセンとオーストリアの対立は、1866年プロイセン=オーストリア戦争として具現化した。勝者は鉄血宰相ビスマルク率いるプロイセン

 1867年北ドイツ連邦が成立。北部のドイツ統一がなされた。

 ドイツ統一はプロイセン中心に達成され、オーストリアは排除された。

 多民族国家となっていたオーストリアはハンガリー人の協力を得るために、1867年オーストリア=ハンガリー二重帝国となる。

ヴェルナー『ドイツ帝国の成立』、1885年

 プロイセン=フランス戦争を経た1871年、南部のバイエルンも含むドイツ帝国が成立した。

 オーストリア中心の神聖ローマ帝国を第一帝国、プロイセン中心のドイツ帝国を第二帝国という。

バイエルンのノイシュヴァンシュタイン城

 ドイツの政治的統一がなされた1867年、極東の地では大政奉還が宣言された。1868年には明治新政府が樹立

 1873年には岩倉使節団が到着。ビスマルクの言葉「世界は弱肉強食が実情である。プロイセンが貧弱だった幼い頃に味わった小国の悲哀と怒りを忘れることができない。貴国も万国公法を気にするより、富国強兵を行うべきだ。さもなければ植民地化の波に飲み込まれるだろう。」は、明治日本の世界観となった。

7. 近代:世界大戦

世界政策と第一次世界大戦

 1890年、ヴィルヘルム2世は、領土拡大政策「世界政策」を取るようになる。

 しかし、すでに世界は、他の帝国主義国により植民地化され尽くされていた。

 ロシアの南下政策、フランスのアフリカ植民地政策、イギリス海軍と対立関係になる。

 対立は1914年に、第一次世界大戦を生み出す。

第一次世界大戦 地図

 ドイツは敗戦。ドイツ第二帝国は崩壊し、ワイマール共和国が成立する。

 同盟国オーストリアも敗戦。サン=ジェルマン条約で、オーストリア=ハンガリー二重帝国は解体オーストリア共和国が成立する。

ナチスと第二次世界大戦

 ワイマール共和国は戦後賠償金に苦しみつつも、徐々に経済を回復させていく。しかし、1929年世界恐慌が発生。600万人もの失業者を出した。

ヒトラーが考えた世界首都ゲルマニア

 経済危機の中で急速に台頭したのがアドルフ=ヒトラーナチスである。

 ナチス党は戦後体制の打破と失業対策を打ち出し、没落しつつある中間層の熱狂的な支持を獲得。

Eine Rede von Adolf Hitler (アドルフ・ヒトラー氏の演説)
Eine Rede von Adolf Hitler (アドルフ・ヒトラー氏の演説)

 合法的な手段で政権与党に上りつめ、1933年合法的に独裁政権が誕生した。ナチス=ドイツの独裁体制下にあるドイツを第三帝国という。 

 ナチスは1939年、ポーランド進攻を開始。第二次世界大戦が勃発。1940年にはパリを陥落させた。

 こうして、一時はヨーロッパ大陸全土を手中に収めたが、1945年にソビエト連邦によりベルリンが陥落した。

第二次世界大戦 地図

8. 現代:分断と再統一

東西分断

東ドイツ 西ドイツ 東西冷戦 地図

 第二次世界大戦後には2つのイデオロギーが存在していた。

  • 自由を追求し、弱肉強食の社会を建設する自由主義(アメリカ中心)
  • 平等を追求し、強力な管理社会を建設する社会主義(ソ連中心)

 ドイツは、アメリカ側の西ドイツ、ソ連側の東ドイツに分断された。

 1961年、東ドイツから西ドイツに逃れる市民を食い止めるために、ベルリンの壁が建設された。ベルリンの壁は、アメリカとソ連の冷戦を象徴した。

 また、オーストリア1955年永世中立国を宣言。

ドイツの戦後復興

 ドイツは「経済の奇跡」と呼ばれる戦後復興を成し遂げた。

自動車スポーツ電気化学金融
フォルクスワーゲンプーマシーメンスバイエルアリアンツ
メルセデス・ベンツアディダスミュンヘン再保険
ポルシェドイツ銀行
アウディ
ダイムラー

ベルリンの壁崩壊

ベルリンの壁崩壊

 1989年ポーランドやハンガリーで民主化が達成。東ドイツ市民は民主化が進まないことに不満を抱き、他国経由での逃亡を図るようになった。

 その中で、1989年11月9日、旅行条件の大幅な緩和が発表される。しかし、「即時」の「自由交通」ができると誤って伝えられ、会見から5時間の間に数万人の群衆が終結。

 国境警備隊は群衆を抑えることができず、ベルリンの壁が崩壊した。

 東西ベルリンは再び行き来が可能になり、その後東ドイツが西ドイツに編入される形で東西ドイツが統一された。こうして現在のドイツ連邦共和国が成立した。

現在のベルリン

参考資料


世界史図説タペストリー(帝国書院):歴史地図作成で参考

 


高校世界史教科書『世界史B』(実教出版):掲載事項の選定に利用

執筆者:ウェンニー

画像:しまうま

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