香港の歴史/ 自由な中国経済都市

都市
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 爆速で香港の歴史を紀元前からイギリス統治時代、特別行政区時代を見ていきます。香港は外資の対中投資の7割が経由する大金融都市です。その分、中国政府も香港の中国化に必死です。

  • 紀元前
    百越

     今の中国南部からベトナムにかけて百越という国が存在した。香港に相当する地区はこの国の勢力圏にあった。

  • 前214年
    中国の支配領域に組み込まれる

     前221年に史上初めて中国を統一した秦の支配下に入る。以後、1842年まで中国がこの地を支配した。

  • 唐代
    軍隊の駐屯地になる

     広州に市舶司がおかれ、南海貿易で大いに栄えた。イスラーム商人やユダヤ人やソグド人が往来し、外国人居住地「蕃坊」が築かれた。

     広州は珠江のデルタ地帯に位置しており、河口に位置する香港近くに軍の駐屯地「屯門」が築かれた。

  • 1517年
    ポルトガル人の「屯門」占領、

     来航したポルトガル人が「屯門」を占領。1522年に明朝は駆逐する。1557年になると、明は珠江の河口の西側マカオへの居住を許した。

     マカオは珠江を挟んで香港の反対側にある。こちらは1999年までポルトガルが領有していた。

  • 1699年
    イギリス東インド会社の広州来航

     イギリス東インド会社が来航。中国貿易を開始する。

  • イギリスの巨額の貿易赤字

     イギリスは中国茶を大量に輸入する一方で、中国への輸出は盛んではなく、巨額の貿易赤字を抱えていた。

     その理由の一つに、制限貿易がある。中国は冊封・朝貢体制を外交の基本としていた。中国皇帝の外交的優位性を認めれば朝貢貿易が開始され、多額の下賜が受け取れるというものである。

     朝貢貿易はイギリス王が中国皇帝の下位に位置づけられることを意味し、イギリス人は受け入れることができなかった。

     朝貢貿易をしないのであれば、広州十三行という特権商人としか貿易することができなかった。イギリス人はこれを「カンフー・システム」と呼び、嫌った。

  • アヘンの密貿易

     巨額の貿易赤字を解消するため、インドでアヘンを栽培し、中国に高値で売り捌いた。中国ではアヘンが蔓延。

  • 1840〜42年
    アヘン戦争
    現在のジャーディン・マセソン(香港)(wiki)

     清王朝の林則徐はアヘン密貿易の取り締まりを強化。これに対して、ジャーディン・マセソン商会※は積極的なロビー活動により、中国派兵のイギリス議会のお墨付きを得る。

     ※イギリス東インド会社は1833年、対中貿易の独占権を失っている

     そして、アヘン戦争が勃発。中国はイギリスに敗北する。

  • 1842年
    イギリスの香港島獲得

     南京条約が締結され、広州十三行は廃止。清朝は自由貿易を認めさせられる。また、このとき、イギリスは香港島を獲得した。

  • 1860年
    イギリスの九龍半島獲得

     清とヨーロッパ諸国の間でアロー戦争が勃発。天津条約で、イギリスは香港島の対岸にある九龍半島を獲得する。

  • 1898年
    イギリスの新界租借

     イギリスは清朝に迫り、九龍半島の付け根にあたる新界の99年間の租借を認めさせた。これは1997年6月30日午後12時までの約束であった。

  • 19世紀末〜
    イギリスの対中国貿易の拠点

     イギリスは対中貿易の拠点として整備。「東洋の真珠」とうたわれた。

  • 1941年〜1945年
    日本軍の占領

     日本軍が占領。香港は中国・東南アジア・オーストラリアとの貿易が停止され経済的に困窮。160万人いた人口が転出により60万人に減少した。

     香港では日本軍による占領期間を「三年零八個月」と呼ぶ。また、現地のイギリス軍が日本軍に降伏したのは12月25日であり、「ブラック・クリスマス」と呼ばれる。

  • 1945年
    イギリス統治へ戻る

     戦後、香港は中国に返還されず、イギリスに残る。

     

  • 1949年〜1977年
    自由主義圏に属する中国本土の拠点へ

     中国本土で1949年に共産党政権が樹立されると、自由主義を求めて多くのイギリス人や華人が上海から香港に移住した。

     さらに朝鮮戦争で中国が国際的に孤立すると、香港は西側諸国と中国の唯一の窓口となる。これは文化大革命が終結し、鄧小平の改革開放が始まるまで続いた。

     この時期、対中貿易に制限がかかっていたので、香港は流入する安価な労働力を利用し製造業で発展。台湾・韓国・シンガポールとともにアジアNIESに位置づけられた。

    Photo by Rids on Unsplash

     香港は狭いため、都市は垂直方向に成長。香港にしか見られない景観が生まれた。

  • 1884年
    中英共同声明と香港人の反発

     イギリスは租借延長を求めたが鄧小平は拒否。結果、香港は1997年7月1日に中華人民共和国の特別行政地区となると発表。

     同時に、中国と香港は同じ国だが、香港は自由主義経済や自治を認める一国二制度をとるとされた。

     この時、共産党の支配を受けたくない人々の間で同じイギリス連邦内のカナダやオーストラリアへの移民ブームが起きる。

  • 1997年
    香港の中国返還
    過去のイギリス植民地たち↑

     香港は中国に返還。香港はイギリスの最後の実質的な植民地であったため、「大英帝国の終焉」と報じられた。

  • 1997年〜
    香港の現在
    香港、Photo by Simon Zhu on Unsplash

     香港ではイギリスのコモンローがいまだ使われており、一国二制度を維持している。

     アジア通貨危機やSARSによる経済危機を乗り越えた後は、アジア第二位の金融市場を有しており、影響力は大きい。

     1997年時点では自らのアイデンティティが中国人と答える人は37%程度いたが、徐々に減少。「香港人」というアイデンティティが生まれている。

     近年、中華人民共和国は香港への干渉政策を強めており、香港人は反発している。

     2014年、2019年には大規模な反中デモが起きた。

     ただ、2020年、コロナ禍に世界が注目している間、中華人民共和国は香港国家安全法の導入を決定。香港の自由は大幅に損なわれようとしている。

    香港国家安全法とは

    ・国家転覆の恐れがあるときに適用される法律

    ・具体的には未定

    ・共産党政権に対して批判的な議論の取締りが強化される模様

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