爆速でインドの歴史の流れがつかめます。
1、古代のインド

が
- 紀元前2600年インダス文明
ハラッパーとモヘンジョ=ダーロを二大都市とする都市文明。人口は500万人に達する巨大な文明だった
- 前1800年頃インダス文明衰退
原因は諸説あり不明。
- 前1500年頃アーリヤ人の侵入
ヨーロッパ=インド語族のアーリヤ人が南下し、アフガニスタンからインドに侵入した。
アーリヤ人は自然を神格化したバラモン教を信じた。バラモンとは聖職者のことである。
- 前1000年頃ガンジス文明
前1000年頃、アーリヤ人はガンジス川に移住した。農耕社会が築いた。ここで4つの大きな身分が生まれた。
宗教のバラモンと、政治・軍事のクシャトリヤが支配者階級であった。
支配者階級になれなかったアーリヤ人農民はヴァイシャとされ、生産階級を作った。一方で、先住民はアーリヤ人に奉仕するシュードラとされた。
このバラモンを頂点とする4つの身分は、ヴァルナと呼ばれ、後のカースト制に発展する。
- 商業の発達と新宗教
釈迦が悟りを開いた地に立つ寺院(wikiより) 農耕社会の中から、都市が出現した。商人が経済力をつけ、身分制度に反発。この時に、仏教が生まれた。
- 前334年アレクサンドロス大王の東方遠征
ギリシアのアレクサンドロスがインドに侵入。外敵の出現によりインド統一の機運が高まった。
2、古典時代
- 前317年〜マウリヤ朝:古代統一王朝
前317年、ガンジス川流域を拠点にマウリヤ朝が創始された。最盛期のアショーカ王の治世ではインド南端をのぞいて統一した。
地方に王族を送り統治させる中央集権体制を築いた。しかし、経済発展により地方政権が成長し、マウリヤ朝は衰退した。
- 分裂の500年
マウリヤ朝衰退後、500年にわたり諸王国が興亡をくりひろげた。
漢とローマを繋ぐシルクロードを支配し栄えたクシャーナ朝、ローマとの海上貿易で栄えたサータヴァーハナ朝が有名。
- 仏教 vs バラモン教(→ヒンドゥー教)
マウリヤ朝崩壊後、仏教はインドに広く広まった。バラモン教は仏教に対して劣勢に立たされた。
そこで、バラモン教は土着の神を取り入れ、大衆の支持をえようとした。こうして、バラモン教はヒンドゥー教へと変貌を遂げた。
- 320年頃グプタ朝:古典文化の黄金期
320年頃、「マハラジャの中の統王」を名乗る王がグプタ朝をたて、北インドが統一された。
インド南部を支配することはできなかったが古典文化が黄金期を迎えた。
多くの傑作サンスクリット文学が生まれた。戯曲『シャクンタラー』・世界的に有名なエロ本『カーマスートラ』が書かれ、『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』が完成した。
さらに、科学も発展した。円周率や1年の長さは正確に計算され、ゼロの概念も発見された。
3、ラージプート時代
- 8~13世紀ラージプート時代
グプタ朝が衰退した後、ヴァルダナ朝が強勢を誇ったが、すぐにヒンドゥー諸国家が乱立した。8世紀から13世紀は、ラージプート時代という。
上の地図でのインドには、ラージプート時代に出現したインド諸国家が描かれている。一方で、インド以外の地域については8~9世紀の地図が描かれている。
- チャンデッラ朝
カジュラーホ寺院(チャンデッラ朝)(wikiより) - チョーラ朝
大チョーラ寺院(wikiより) インド南部の国。スリランカやマレーにも支配域を広げた。
- 都市衰退→農村社会へ
政治的混乱の中で、都市が衰退し、農村社会への移行した。
このころ、カースト制にも変化が見られた。この時代、ヴァイシャは商人階級となり、シュードラは農民階級を指すようになった。こうして、バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラに次ぐ、アウト・カースト「不可触民」が生まれた。
- ヒンドゥー教 vs 仏教
政治的な混乱の中で、都市商人が没落。仏教は大事な信者を失った。こうして、仏教は、お釈迦様(シッダールタ)の生誕地である天竺(インド)で忘れられていった。
一方で、ヒンドゥー教はカースト制のイデオロギーとなり、農村社会に根付いていった。
4、インドのイスラーム政権
- 7世紀後半インド南西部にウマイヤ朝支配及ぶ
海岸部では早い時期からイスラーム政権が生まれた。
- 11世紀アフガニスタンからの侵入者
陸路からはアフガニスタンよりガズナ朝やゴール朝が侵入した。
- 1206年〜1526年デリー=スルタン朝
1206年、戦闘奴隷がデリーに入城。奴隷王朝を創始した。奴隷王朝以降、デリーを都とする5つの王朝「デリー=スルタン朝」が生まれた。
デリー=スルタン朝は、北方からのモンゴル勢の侵入に悩まされた。そこで、南方への進出を図り、南部以外を手中におさめた。
- 1336年〜ヴィジャヤナガル王国
パンピの寺院(ヴィジャヤナガル王国・旧首都) 一方で、南方には、1336年、ヒンドゥー教国のヴィジャヤナガル王国が成立。イスラーム教のデリー=スルタン朝に対抗して300年存続した。
- 1526年ムガル帝国
1526年、イスラーム教のムガール帝国を創始された。公用語はペルシア語であり、ヒンドゥー教徒からすれば異教徒・異民族の国家であった。
ムガル帝国は、第三代アクバルの治世で北インドを征服、インドでの覇権を確立した。
タージマハール(Unsplashより) 帝国の繁栄は150年続いた。この頃には壮麗なタージマハールも造営された。
しかし、最大版図を実現したアウラングゼーブの死後、経済力を蓄えた地方政権が自立化し、ムガル帝国は衰退する。
- 1674年マラータ王国→マラータ同盟
アウラングゼーブと争ったヒンドゥー教徒がシヴァージーである。1674年、シヴァージーはマラーター王国を建国した。
18世紀後半の地図 その後、マラータ王国宰相を中心にできたマラーター同盟が、インド最大の勢力となった。
5、イギリスによる植民地化
- 1498年ポルトガルがインド航路を発見
- 1600年イギリス東インド貿易会社設立
インド貿易を統括するため、イギリスで世界初の株式会社が設立された。
- 1623年アンボイナ事件
当時のヨーロッパ商人の最終目的地はインドネシアの香料諸島だった。しかし、オランダ人がインドネシアのイギリス商人を虐殺。イギリス人はインド経営に専念するようになる。
- 1744〜1763年カーナティック戦争
イギリス対フランスのインドをめぐる戦争。イギリスが勝利。
- 1764年ベンガル地方の徴税権獲得
東インド会社はムガル皇帝よりベンガル地方の徴税権を獲得。インドの植民地化の第一歩を踏み出す。
- 1700年代後半東インド会社軍のインド制圧
イギリス東インド会社は、18世紀後半から戦争を繰り返し、直接統治と間接統治を組み合わせてインド植民地を広げていった。
イギリス支配下で、農民の没落が見られた。近代法の概念である所有権を、共有地に適用した結果、多くの農民が土地を失ったのである。
- 1857年インド大反乱
東インド会社の信仰心を踏みにじる行為に怒ったインド人が大反乱を起こした。しかし、統制が取れていなかったため、鎮圧された。
- 1858年ムガル帝国滅亡
ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世がビルマに逃亡。ムガル帝国は滅亡した。
- 1858年イギリス領インド
東インド会社は解散。インドは本国統治に切り替わった。
- 1877年インド帝国
インド皇帝ヴィクトリア 1877年、大英帝国とインド帝国は同君連合となり、イギリス女王ヴィクトリアが皇帝位に即位した。
- イギリスのアジア戦略(脱線)
イギリスのアジア戦略を見てみる。
18世紀中葉、イギリスで産業革命がおこた。大量に作られる商品の売り先として、インド・中国が目をつけられた。
物流戦略として、エジプト・インドネシアが重視され、スエズ運河・シンガポール建設につながる。
仮想敵国は、南下政策を推進するロシア帝国。インドを守るため、アフガニスタンを保護国化した。インド北方のチベットも影響下においた。
分裂状態のインドでは植民地化を進め、統一政権の存在する中国には自由貿易を求めた。
6、インドの独立運動
- 民族主義の目覚め
現在のインド国民会議の党旗 インドを植民地化したイギリスは、インド人官僚の育成を目指した。しかし、ヨーロッパの人権思想に触れた彼らは民族主義に目覚めていった。
特に、インド国民会議派はその運動の中心になった
- 1906年ムスリムの分離
全インド=ムスリム連盟の旗 イギリス人は、ヒンドゥー教徒とムスリム教徒の対立を利用。民族運動の分解を図った。結果、全インド=ムスリム連盟が成立。
- 1914年〜第一次世界大戦
第一次世界大戦が勃発。インド人の協力を得たいイギリスは自治を約束。
第一次世界大戦にインド帝国も参戦し、100万人以上のインド人兵士が動員された。
マハトマ=ガンディ しかし、戦後、イギリスは自治を認めなかった。裏切られたインドでは、ガンディーが抵抗運動を繰り広げ、ネルーは完全独立を公然と主張した。
- 1939年~第二次世界大戦
イギリスへの戦争協力・インド独立運動の間でいくつもの立場がとられた。
7、インドの独立
- 1947年2月イギリス、インドからの撤退
戦争で疲弊したイギリス本国にはインド統治の力はなく、1947年2月、インドからの軍撤退を宣言する。
こうして、インド独立への道筋が開けた。
- 1947年8月15日インド独立
1947年8月15日、ヒンドゥー教徒を主体とするインド連邦が独立宣言した。1950年の憲法施行で、インド共和国となる。
- 1947年8月15日パキスタン独立
同日、イスラーム教徒を主体とするパキスタンが分離独立した。当時のパキスタンは、現在のパキスタンとバングラデシュである。
- 1971年バングラデシュ分離独立
西パキスタン(現パキスタン)の方が政治的に強いことが不満であった東パキスタン(現バングラデシュ)は分離独立した。
- 現在インド共和国の今
社会主義が採られ、長い間経済的に低迷した。冷戦が終結し、ソ連が崩壊した1990年代に入ると、インドは経済の自由化し、経済成長を開始した。
ムンバイ(インド第二の都市)wikiより