インドの歴史まとめ/混沌の亜大陸【受験世界史の地図】

東洋史

 インドは、圧倒的な異国情緒に満ちた大陸である。そして、インドの歴史も複雑である。そこで、受験世界史を参考にインドの歴史を単純化したみた。初学者にとっては、簡潔にして十分なインド史となっている。

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0. インドとは?

文化

 インドは北の高い山脈で区切られた巨大な閉鎖地帯である。この中で、インドの人々は独特で高度な文化を築いた。一方で、政治的な完全統一はなく、多様な文化を生んだ。この「一にして多、多にして一」がインドを形成している。

経済

 また、インドの南には広大な海が広がっており、オリエントと中国の中継地点として経済的に繁栄した。インド文化は東南アジアや中国そして日本にも影響を及ぼした。釈迦が生まれた地:天竺は、インドのことである。

異民族

 インド侵入を試みる異民族の侵入は、アフガニスタンとインドを繋ぐカイバル峠を通った。アレクサンドロス大王・ムガル帝国初代皇帝が有名である。

 しかし、近代に入ると、南洋よりきた異民族がインド全土を支配した。その異民族とは、イギリス人。大英帝国は、史上初めて、インド亜大陸全域を政治的に統一したのである。

現代のインド亜大陸

 現代のインド諸国家は、イギリスからの独立により成立した。その際、宗教対立により、インドとパキスタンは分離した。この対立は今も印パ対立として残存している。

1. 古代インダス文明

インダス文明の地図(インドの歴史)

 紀元前2600年〜紀元前1800年、古代インダス文明が栄えた。ハラッパーとモヘンジョ=ダーロを二大都市とする都市文明で、人口は500万人に達する巨大な文明だった

 しかし、前1800年頃に衰退した。原因は諸説あり、謎である。

2. ガンジス文明 〜ヴェーダ時代〜

アーリヤ人の移動(インドの歴史)

アーリヤ人のインド侵入

 前1500年頃、印欧語族のアーリヤ人が南下し、アフガニスタンからインドに侵入した。

 アーリヤ人は自然を神格化したバラモン教を信じた。バラモンとは聖職者のことである。

ガンジス文明

 前1000年頃、アーリヤ人はガンジス川に移住した。農耕社会が築いた。ここで4つの大きな身分が生まれた。

ヴァルナ制(インドの歴史)

 宗教のバラモンと、政治・軍事のクシャトリヤが支配者階級であった。

 支配者階級になれなかったアーリヤ人農民はヴァイシャとされ、生産階級を作った。一方で、先住民はアーリヤ人に奉仕するシュードラとされた。

 このバラモンを頂点とする4つの身分は、ヴァルナと呼ばれ、後のカースト制に発展する。

新宗教の出現

 農耕社会の中から、都市が出現した。金持ちになった商人は身分制度をいまいましく思っていた。

 さらに、この頃、儀式ばかりのバラモン教を批判し、「考えること」を重視する『ウパニシャット哲学』が成立した。

ブッダガヤ寺院(インドの歴史)
釈迦が悟りを開いた地に立つ寺院(wikiより)

 この二つを土台に、身分制度を否定する仏教・ジャイナ教が生まれ、信者を拡大していった。

アレクサンドロス大王の東方遠征

アレクサンドロス大王の東方遠征の地図(インドの歴史)

 前334年、はるか西方のかなたギリシアから進軍する者がいた。アレクサンドロス大王である。アレクサンドロス大王はアフガニスタンからインドに侵入。外敵の出現にインド統一の機運が盛り上がった。

3. 古典時代

マウリヤ朝:古代統一王朝

マウリヤ朝の地図(インドの歴史)

 前317年、ガンジス川流域を拠点にマウリヤ朝が創始された。最盛期のアショーカ王の治世ではインド南端をのぞいて統一した。

 地方に王族を送り統治させる中央集権体制を築いた。しかし、経済発展により地方政権が成長し、マウリヤ朝は衰退した。

分裂の500年

 マウリヤ朝衰退後、500年にわたり諸王国が興亡をくりひろげた。ここでは単純化して、受験的に重要な2つの国に焦点を当てたい。

クシャーナ朝とサータヴァーハナ朝(インドの歴史)

北:クシャーナ朝

 イラン系のクシャーナ朝はアフガニスタンから侵入し、2世紀ごろ、北インドを支配した。

 漢帝国とローマ帝国の中継地点を支配し、クシャーナ朝は繁栄した。クシャーナ朝の王は、ローマ皇帝の称号「カエサル」、中国語の「天子」も名乗った。

南:サータヴァーハナ朝

 1世紀ごろにから、ヨーロッパーインド海上交易が栄えた。季節風が発見され、航路が確立したらからである。

 特に、サータヴァーハナ朝はデカン高原を支配、インド半島西岸と東岸を支配したので貿易で栄えた。

仏教 vs バラモン教(→ヒンドゥー教)

 マウリヤ朝崩壊後、仏教はインドに広く広まった。バラモン教は仏教に対して劣勢に立たされた。

 そこで、バラモン教は土着の神を取り入れ、大衆の支持をえようとした。こうして、バラモン教はヒンドゥー教へと変貌を遂げるのである。

黄金期:グプタ朝

グプタ朝の地図(インドの歴史)

 320年頃、「マハラジャの中の統王」を名乗る王がグプタ朝をたて、北インドは再統一された。

 6世紀まで続いたグプタ朝では、古典文化が黄金期を迎えた。多くの傑作サンスクリット文学が生まれた。戯曲『シャクンタラー』・世界的に有名なエロ本『カーマスートラ』が書かれ、『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』が完成した。

 さらに、科学も発展した。円周率や1年の長さは正確に計算され、ゼロの概念も発見された。

エローラ石窟群(インドの歴史)
最初、仏教寺院だったがヒンドゥー寺院となったエローラ石窟群(wikiより)

4. インド分裂期

ラージプート時代

ラージプート時代の地図(インドの歴史)

 グプタ朝が衰退した後、ヴァルダナ朝が強勢を誇ったが、すぐにヒンドゥー諸国家が乱立した。8世紀から13世紀は、ラージプート時代という。

 上の地図でのインドには、ラージプート時代に出現したインド諸国家が描かれている。一方で、インド以外の地域については8~9世紀の地図が描かれている。

カジュラーホ寺院(インドの歴史)
カジュラーホ寺院(チャンデッラ朝)(wikiより)

 この頃の建築としては、チャンデッラ朝のカジュラーホ寺院が秀逸である。

大チョーラ寺院(インドの歴史)
大チョーラ寺院(wikiより)

 インド南端でも諸国が分立した。中には、チョーラ朝のようにスリランカやマレーにも支配域を広げた国もあった。

都市から農村へ

 政治的混乱の中で、都市が衰退し、農村社会への移行した。

 このころ、カースト制にも変化が見られた。この時代、ヴァイシャは商人階級となり、シュードラは農民階級を指すようになった。こうして、バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラに次ぐ、アウト・カースト「不可触民」が生まれた。

ヒンドゥー教 vs 仏教

 政治的な混乱の中で、都市商人が没落。仏教は大事な信者を失った。こうして、仏教は、お釈迦様(シッダールタ)の生誕地である天竺(インド)で忘れられていった。

 一方で、ヒンドゥー教はカースト制のイデオロギーとなり、農村社会に根付いていった。

5. インドのイスラム政権

イスラームの侵入

 イスラームの侵入時期は海と陸で異なった。

 海路経由では、早くも7世紀後半より、インド南西部はウマイヤ朝の支配をうけ、イスラーム政権が

 一方で、陸路経由では11世紀以降、アフガニスタンよりガズナ朝やゴール朝が侵入した。

デリー=スルタン朝

デリー=スルタン朝(インドの歴史)

 1206年、戦闘奴隷がデリーに入城。奴隷王朝を創始した。奴隷王朝以降、デリーを都とする5つの王朝「デリー=スルタン朝」が生まれた。

 デリー=スルタン朝は、北方からのモンゴル勢の侵入に悩まされた。そこで、南方への進出を図り、南部以外を手中におさめた。

パンピの寺院(インドの歴史)
パンピの寺院(ヴィジャヤナガル王国・旧首都)

 一方で、南方には、1336年、ヒンドゥー教国のヴィジャヤナガル王国が成立。イスラーム教のデリー=スルタン朝に対抗して300年存続した。

ムガル帝国

ムガル帝国の地図(インドの歴史)

 1526年、イスラーム教のムガール帝国を創始された。公用語はペルシア語であり、ヒンドゥー教徒からすれば異教徒・異民族の国家であった。

 ムガル帝国は、第三代アクバルの治世で北インドを征服、インドでの覇権を確立した。

タージマハル(インドの歴史)
タージマハール(Unsplashより)

 帝国の繁栄は150年続いた。この頃には壮麗なタージマハールも造営された。

 しかし、最大版図を実現したアウラングゼーブの死後、経済力を蓄えた地方政権が自立化し、ムガル帝国は衰退する。

マラータ

 アウラングゼーブと争ったヒンドゥー教徒がシヴァージーである。1674年、シヴァージーはマラーター王国を建国した。

マラータ同盟の地図(インドの歴史)
18世紀後半の地図

 その後、マラータ王国宰相を中心にできたマラーター同盟が、インド最大の勢力となった。

6. イギリスによるインド植民地化

ヨーロッパとインドとの貿易

ヨーロッパのインド進出の地図(インドの歴史)

 1493年、ポルトガルがヨーロッパーインド航路を開き、最終的にイギリス東インド会社がヨーロッパーインド貿易を支配した。

 ただし、はじめ、1500年時にインドGDPの20分の1にすぎないイギリスは、インドを貿易するだけであった。(マディソン『世界経済2000年史』)

 インド貿易はイギリス政府ではなく、1600年設立の株式会社:東インド貿易会社が行った。

インドの植民地化

インドの植民地化(インドの歴史)

 しかし、産業革命がはじまったイギリスは、植民地化に乗り出していく。1764年、ベンガルの徴税権獲得がはじまりとなった。

 イギリス東インド会社は、18世紀後半から戦争を繰り返し、直接統治と間接統治を組み合わせてインド植民地を広げていった。(例えば、マイソール戦争、マラータ戦争、シク戦争など)

 イギリス支配下で、農民の没落が見られた。近代法の概念である所有権を、共有地に適用した結果、多くの農民が土地を失ったのである。

インド帝国

 100年にもわたるイギリスの支配強化の中で、1857年、インド大反乱が勃発した。

 インド大反乱により、イギリス東インド会社は解体。1858年、本国によるイギリス領インド帝国が成立した。

インド皇帝ヴィクトリア(インドの歴史)
インド皇帝ヴィクトリア

 1877年、大英帝国とインド帝国は同君連合となり、イギリス女王ヴィクトリアが皇帝位に即位した。

イギリスのアジア戦略と、日本

イギリスのアジア進出(インドの歴史)

 ここで、イギリスのアジア戦略の全体像を見てみたい。当初はインドとの貿易を目指したと述べたが、あれは「インド産綿織物の輸入」である。

 18世紀中葉に産業革命がおこると、「イギリス産綿織物の輸出先」としてインドが見られ、植民地化が進み、最終的に、インド全土を支配した。

 イギリスは交通の要衝もおさえた。インドー中国航路で重要なマラッカ海峡を植民地化。ヨーロッパーインド航路で重要なエジプトも保護国化、後にスエズ運河を完成させた。

 さらに、不凍港も求め南下政策を推進するロシア帝国に対抗して、アフガニスタンを保護国化した。インド北方のチベットも影響下におき、東方のビルマも植民地化した。

 そして、19世紀中葉より、インド産のアヘンを中国に密輸し、アヘン戦争をおこし、中国進出を目指した。

〜その頃日本では〜

 19世紀中葉は、日本の江戸時代末期。1868年、ヨーロッパの植民地拡大に危機感を抱いた地方の若者が中心となり、明治新政府が樹立される。20世紀前半のこの新国家は、欧米列強に対抗できるアジア唯一の国家となるのである。

7. インド独立運動

民族意識の高まり

インド国民会議派の旗(インドの歴史)
現在のインド国民会議の党旗

 イギリスはインド人エリートを育成しようとした。ここにインド国民会議が成立した。しかし、西欧近代思想を学んだインド人エリートは民族意識に目覚めていく。

〜その頃日本では〜

 1904〜05年、日露戦争が勃発。日本はロシア帝国に勝利する。同じアジア国家のヨーロッパへの勝利は、インド人に希望をもたらた。ここで、インド民族運動が盛り上がった。

 これはインドに限った現象ではなく、他にも中国の孫文、イラン立憲革命、青年トルコ革命に影響を与えた。

 しかし、日本はアジアの星から欧米列強の一員のへと性格を変えていった。

全インド=ムスリム連盟の旗(インドの歴史)
全インド=ムスリム連盟の旗

 そこで、イギリスは、ヒンドゥー教徒とムスリム教徒の対立を煽った。1906年、全インド=ムスリム連盟が発足し、ヒンドゥー教徒勢力となったインド国民会議派と対立した。

第一次世界大戦とその後

 1900年初頭、植民地を拡大する欧米列強の内部対立が高まっていた。これが、1914年、第一次世界大戦に発展する。

 インド人の協力を得たいイギリスは自治を約束。第一次世界大戦に、イギリス領インド帝国も参戦し、100万人以上のインド人兵士を動員した。

ガンディ(インドの歴史)
マハトマ=ガンディ

 しかし、戦後、イギリスは自治を認めなかった。裏切られたインドでは、ガンディーが抵抗運動を繰り広げ、ネルーは完全独立を公然と主張した。

第二次世界大戦とその後

インパール作戦(インドの歴史)

 1939年に勃発した第二次世界大戦では、参戦への抵抗がおきた。さらに、日本が結成したインド国民軍への支持が集まり、インド侵攻を企てる日本軍へも好意的であった。

 戦後、インド国民軍兵士は反逆者として裁判にかけられた。しかし、インド人はインド国民軍兵士を支持し、インド帝国軍でも反乱がおこった。

〜その頃日本は〜

 第二次世界大戦に参戦した日本は、中国のゲリラ部隊に苦戦していた。そのゲリラ部隊への援助ラインがインド帝国東部にあった。そのため、日本軍はインド帝国東部の都市インパールを攻略すべく、「ウ号作戦」を実行した。

 しかし、ほぼすべての日本兵は戦死し失敗。日本軍史上最悪の作戦と呼ばれている。

8. 現代インドとパキスタン

現代インド亜大陸の地図(インドの歴史)

インド分離独立

 戦争で疲弊したイギリス本国にはインド統治の力はなく、1947年2月、インドからの軍撤退を宣言する。

 こうして、インド独立への道筋が開けた。

 しかし、インドにはヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の宗教対立が残っていた。その結果、インド共とパキスタンが分離独立した。

インド

 1947年8月15日、ヒンドゥー教徒を主体とするインド連邦が独立宣言した。1950年の憲法施行で、インド共和国となる。

 西欧式の教育を受けたエリート層が厚かったため、普通選挙の実施など民主主義的な国家体制が採られた。

 また、社会主義が採られた。しかし、計画経済に失敗したインドは長い間、経済的に低迷した。

 冷戦が終結し、ソ連が崩壊した1990年代に入ると、インドは経済の自由化し、経済成長を開始した。

パキスタンとバングラデシュ

 1947年8月15日、パキスタンが分離独立した。当時のパキスタンは、東西に分かれた飛地国家だった。

 1956年、パキスタン=イスラーム共和国憲法が成立した。憲法では政教分離をうたっており、パキスタンはイスラーム教徒による近代的な民族国家だった。

 しかし、パキスタンは「再イスラーム化」する。きっかけは、1971年、東パキスタンは独立だった。政治の中心の西パキスタンへの不満が溜まっていた東パキスタンが独立。バングラデッシュが成立したのである。

 パキスタンはインドと領土問題を抱え、しばしは印パ戦争が勃発した。

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