インドネシアの歴史まとめ

国々の歴史
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 爆速でわかるインドネシア史の流れです。

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1、古代インドネシアの海上貿易の歴史

現代インドネシアの地図
  • 2世紀
    ローマ帝国と漢
    ローマ帝国と後漢の海上貿易の地図

     東西の帝国の間では、海上貿易が行われた。ただ、マレー半島を陸路で弥ルートであり、マラッカ海峡は使われなかった。

     また、当時の貿易路の中核は、中央ユーラシアのシルクロードだった。

  • 5世紀
    マラッカ海峡の利用
    アラビア海・ベンガル湾・南シナ海・東シナ海の地図

     季節風を利用した交易路が確立すると、マラッカ海峡が使われるようになった。

     このとき、サンスクリット語などのインド文化が取り入れられた。

2、東と西を繋いだ時代

  • 670年〜
    シュリーヴィジャヤ

     スマトラ島に貿易帝国シュリーヴィジャヤ(室利仏逝)が生まれた。670年ごろにマレー半島で誕生したシュリーヴィジャヤは、682年にスマトラのパレンバンを陥落させ、首都とした。

     インド向けのクダと、中国向けのパレンバンを支配した。

  • 7世紀の東西情勢
    7世紀の世界史地図(ウマイヤ朝と唐)

     7世紀には、唐とイスラームの巨大帝国が誕生。マラッカ海峡の運用が本格化した。

  • 8世紀中頃
    シャイレーンドラ朝

     8世紀なかごろ、中部ジャワのシャイレーンドラ朝が強くなり、シュリーヴィジャヤ王家となった。

     シャイレーンドラ朝シュリーヴィジャヤは、カンボジアの宗主権をもち、唐の安南都護府を陥落させた。

    ボロブドゥール
    ボロブドゥール(wiki)

     大乗仏教のボロブドゥール寺院も建設した。

  • 9世紀中盤
    シャイレーンドラ朝、ジャワを失う

     古マタラム王国が中部ジャワに成立したため、シャイレーンドラ朝はジャワを失った。

     

    プランバナン
    プランバナン

     古マタラム王国はプランバナン寺院を建設した。

  • 10世紀
    ジャーヴァカ

     シュリーヴィジャヤが衰え、マラッカ海峡にはジャーヴァカが誕生した。

     また、ジャワ島ではクディリ朝が誕生。脱サンスクリット語などジャワ固有の文化の発展が見られた。また、米や塩を輸出し、繁栄をとげた。

  • 1222年〜
    シンガサリ朝

     モンゴルがユーラシアを征服しつつあった。

     ジャワの支配権を受け継いだシンガサリ朝はモンゴルと対立した。

  • 1293年〜
    マジャパヒト王国
    マジャパヒトの地図

     さらに、シンガサリ朝のあとを継いだマジャパヒト王国が、モンゴルを撃退した。

     マジャパヒトは経済的に非常に栄えた。

    人口は稠密で、東洋諸国のなかで第一番である。…民は盗みを働かず、道に落とし物を拾わず、諺に「太平のジャワ」というのはまさにこのことである。

    元の『島夷志略』
  • 13末〜14世紀半ば
    第一次大交易時代
    モンゴル帝国とシンガサリ朝

     モンゴルがもたらしたユーラシア大陸の政治的統一は、東西交易を活発化させた。このある種のグローバル化を、第一次大交易時代という。

3、世界貿易の結節点になった時代

  • 15世紀
    第二次大交易時代
    第二次大交易時代

     東南アジアにヨーロッパ人商人が参入した。ポルトガル人はインドから、スペイン人はアメリカから到来し、ここで初めて地球を周回する貿易網が作られた。

     これど第二次大交易時代という。ヨーロッパ人目線だと大航海時代ともいう。

  • 15世紀
    マラッカ王国
    マラッカ王国

     マラッカ王国が、鄭和の大艦隊の基地になり発展。東南アジアではじめて本格的にイスラーム化し、ムスリム商人と友好関係を結んだ。

     結果、マラッカは貿易の中心地となり、大乗仏教のマジャパヒトと対立し、覇権を争った。

    マラッカの王宮
    マラッカの王宮(wiki)

     以降、マレー語とイスラーム教は東南アジアに広まっていった。現在のインドネシア語はマレー語の方言である。

  • 1511年
    マラッカ王国の滅亡

     貿易支配を目論むポルトガルがマラッカ王国を滅ぼした。しかし、商人はポルトガルによる貿易支配を嫌い、東南アジアに貿易拠点は分散した。

     スンダ海峡ルートに位置するアチェやバンテンが栄えた。高まった食料需要のため、中部・東部ジャワ島のマタラム王国が栄えた。

4、オランダの植民地になった歴史

  • 17世紀
    オランダの進出
    バタヴィアの地図

     1602年、オランダは東インド貿易会社を設立。1611年、オランダは西ジャワのジャカルタに商館を建設。バタヴィアと改名した。

     1641年、ポルトガルからマラッカを奪った。

     一方で、オランダに拠点をうばわれたポルトガルは、東ティモールに後退した。

  • 17世紀後半
    植民地化の開始

     オランダは海上貿易のみならず、農園経営に乗り出した。

     

  • 植民地の拡大
    オランダ植民地の形成

     1755年にジャワ西部のバンテン王国、1813年にジャワ東部の新マタラム王国を滅ぼして、植民地にくみこんだ。

  • 1799年
    オランダ東インド会社の解体

     1799年、財政破綻が明らかになったオランダ東インド会社(VOC)は、解体された。

  • 植民地支配の強化

     財政再建を進めるために、オランダの植民地支配は強化された。

     強制栽培制度や、教育水準を抑える倫理政策が取られた。

  • 1912年
    オランダ領東インド植民地の完成
    オランダ領東インド

     また、1912年に、現在のインドネシアの領域がオランダによって植民地化された。最後の現地政権アチェ王国を滅ぼしたのである。

     結果、これをもってオランダ領東インド植民地は完成した。

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5、独立へのあゆみ

  • 民族運動の高まり

     オランダが現地人のエリート層を育成した結果、民族意識に目覚める人々が生まれた。こうして、独立運動が生まれる。

  • 1941~45年
    太平洋戦争
    太平洋戦争における日本軍の最前線

     オランダの支配を破ったのは、南方資源の獲得を目指す日本軍だった。

     1942年、オランダ軍は日本軍に対し降伏した。ただ、日本軍は解放軍ではなく、ロームシャとして多くのインドネシア人を強制労働により死に追いやった。

     1945年の終戦により、インドネシアは日本軍からも解放された。

  • 1945年〜
    インドネシア独立戦争

     1945年8月17日、スカルノはインドネシアの独立を全世界に宣言した。

     結果、オーストラリア軍、オランダ軍、イギリス軍が再植民地化のために攻撃を開始した。インドネシア独立戦争である。

  • 1949年
    インドネシア独立

     インドネシア共和国は、非共産主義を明確に打ち出し、アメリカの支持をえた。結果、国連が独立を支持。

     1949年、ハーグ協定で、インドネシア共和国は独立を達成した。

  • 現在
    インドネシアの今
    首都ジャカルタ

    スローガン:多様性の中の統一

    人口:2.7億人

    国際関係:ASEAN本部所在国

        :東南アジアで唯一G20に参加

 

参考資料


世界史図説タペストリー(帝国書院):歴史地図作成で参考

 


高校世界史教科書『世界史B』(実教出版):掲載事項の選定に利用、大交易時代の表現はここから

 


東南アジア史〈2〉島嶼部 (山川出版):ジャワとスマトラの王朝史を参考にした

  

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