インドネシアの歴史まとめ/世界貿易の中心【受験世界史の地図】

東洋史

0. 簡単に!インドネシアの歴史まとめ

現代インドネシアの地図

 古代よりインドネシアは、スマトラ島とジャワ島に国家が栄えた。スマトラ島は貿易で栄え、ジャワ島は農業で栄えた。

 16世紀になると、ヨーロッパ商人が来航し、交易の規模が全地球規模に拡大。マルク諸島の香辛料は、世界で求められた。

 しかし、17世紀後半にオランダ人がジャワ島に拠点を築いたのをはじめに、徐々にオランダ人が農園経営をはじめ、領地支配をすすめた。これを植民地化という。最終的に、1910年代にオランダが現在のインドネシア全土を植民地とした。

 しかし、第二次世界大戦で、日本軍がオランダを追い出し、日本軍が連合国に敗れると、インドネシア共和国が独立。今に至る。

1. 港市国家の誕生

前2世紀の世界情勢:ローマと漢

ローマ帝国と後漢の海上貿易の地図

 紀元前2世紀から紀元後2世紀ごろは、ヨーロッパのローマ帝国と中国の漢帝国が栄えた時代だった。

 ただし、この時はインドシナ半島の陸路を横断したので、マラッカ海峡はあまり使われなかった。貿易の中心は、カンボジアの扶南やベトナムの林邑だった。

5世紀:港市国家の誕生

アラビア海・ベンガル湾・南シナ海・東シナ海の地図

 5世紀に季節風をつかったベンガル湾航路が発見されると、インドネシアにも港市国家が生まれた。

 また、インドネシアはインドの文化を取り入れ、「インド化」が進んだ。サンスクリット語が使用された。

2. シュリーヴィジャヤの繁栄

7世紀の世界情勢:唐とムスリム商人

7世紀の世界史地図(ウマイヤ朝と唐)

 7世紀には、インドシナ半島の陸路ではなく、マラッカ海峡が使われるようになっていった。

 一方で、中国では唐が400年ぶりに中国を統一。さらに、中東は、イスラーム勢力が統一した。

 結果、ムスリム商人が盛んに来航し、中国と貿易した。

7世紀:シュリーヴィジャヤの繁栄(スマトラ)

 スマトラ島に貿易帝国シュリーヴィジャヤ(室利仏逝)が生まれた。670年ごろにマレー半島で誕生したシュリーヴィジャヤは、682年にスマトラのパレンバンを陥落させ、首都とした。

 インド向けのクダと、中国向けのパレンバンを支配した。

8世紀後半:中部ジャワ時代

 貿易の発展による食料需要の増大は、ジャワ島の農業社会が引き受けた。

東南アジアのシャイレーンドラ朝へ

 8世紀なかごろ、中部ジャワのシャイレーンドラ朝が強くなり、シュリーヴィジャヤ王家となった。

 シャイレーンドラ朝シュリーヴィジャヤは、カンボジアの宗主権をもち、唐の安南都護府を陥落させた。

ボロブドゥール
ボロブドゥール(wiki)

 大乗仏教のボロブドゥール寺院も建設した。

ジャワの古マタラム王国

 ただし、シャイレーンドラ朝は、9世紀中盤に、故郷ジャワから追い出された。

プランバナン
プランバナン

 追い出したのは、ヒンドゥー教の古マタラム王国であり、ヒンドゥー教のプランバナン寺院を建設した。

3. シュリーヴィジャヤの分裂後

9〜10世紀の世界情勢:ムスリム商人からインド商人へ

黄巣の乱による広州の破壊と、ブワイフ朝のバグダード入城

 879年、唐の貿易拠点:広州が破壊され、10世紀後半にアッバース朝の首都バグダードが混乱した。

 結果、ムスリム商人はベンガル湾から撤退し、インド商人が目立つようになった。南インドのチョーラ朝がマラッカ海峡にまで進出した。

ジャーヴァカ(スマトラ)

ジャーヴァカとクディリ朝の地図

 シャイレーンドラ朝シュリーヴィジャヤが衰えた10世紀、スマトラにはジャーヴァカ(三仏済)がうまれた。

 ジャーヴァカは、昔はシュリーヴィジャヤと別名と思われていたが、どうやら多くの国家をまとめていった言い方である。つまり、シュリーヴィジャヤは分裂したのである。

 南インドのチョーラ朝も、シャーヴァカの一角をしめた。

東部ジャワ時代:クディリ(ジャワ)

 一方で、クディリ朝が支配するジャワ島では脱インドが進行し、ジャワ文化が生まれつつあった。具体的には、サンスクリット語からジャワ語への移行が見られた。

 クディリ朝は、中部から東部に中心地を移動させた。クディリ朝は、米や塩を輸出し、繁栄をとげた。

4. 第一次大交易時代(ユーラシア規模)

世界情勢:第一次大交易時代

モンゴル帝国とシンガサリ朝

 13世紀後半、モンゴルがユーラシア大陸を蹂躙し、海上貿易の支配もたくらんだ。そこで、東南アジアで勢力を伸ばしたシンガサリ朝と対立。

 しかし、マジャパヒトがモンゴルを退けると、モンゴルは平和主義に転換。

 結果、ユーラシアの陸上交易と海上交易が結合し、第一次大交易時代をむかえた。(ただし、モンゴル帝国の分裂で早くも14世紀中盤に収束した。)

13世紀:シンガサリ朝(モンゴルと対立)

 1222年、シンガサリ朝がジャワに出現。13世紀後半、シンガサリ朝は東南アジアに勢力を拡大し、海洋帝国を築き上げた。

 一方で、この頃、モンゴルは海上支配をたくらんでおり、シンガサリ朝と対立した。

14世紀:マジャパヒト朝(モンゴルを撃退、その後、繁栄)

マジャパヒトの地図

 元(モンゴル)を迎え撃ったのは、マジャパヒト朝であった。結果、モンゴルは海上進出を諦め、平和が訪れた。

 ここで、第一次大交易時代に入り、14世紀中盤には、マジャパヒト朝の権勢は世界に轟いた。

人口は稠密で、東洋諸国のなかで第一番である。…民は盗みを働かず、道に落とし物を拾わず、諺に「太平のジャワ」というのはまさにこのことである。

元の『島夷志略』

5. 第二次大交易時代(全地球規模)

15世紀の世界情勢:第二次大交易時代

第二次大交易時代

 15世紀に明で永楽帝が即位すると、鄭和の大艦隊を派遣し、東南アジアから東アフリカまでの交易圏が復活した。

 さらに、16世紀になると、ヨーロッパ史における大航海時代がはじまり、西からポルトガル商人が、東からスペイン商人が来航。

 ここで、はじめて全地球を一周する交易圏が成立。交易は大いに栄えた。

マラッカ海峡の繁栄

マラッカ王国

 マラッカ王国は鄭和の大艦隊で発展した。さらに、明が再び海禁政策をとると、東南アジアではじめて本格的にイスラーム化。ムスリム商人と友好関係を結んだ。

マラッカの王宮
マラッカの王宮(wiki)

 結果、マラッカは貿易の中心地となり、大乗仏教のマジャパヒトと対立し、覇権を争った。

 以降、マレー語とイスラーム教は東南アジアに広まっていった。現在のインドネシア語はマレー語の方言である。

スンダ海峡への移行

 1511年、ポルトガルがマラッカ王国を滅ぼし、東南アジア貿易の独占を狙った。このため、マラッカ一極集中から多極分散に移行し、東南アジア全体の貿易が活性化した。

 スンダ海峡ルートに位置するアチェやバンテンが栄えた。高まった食料需要のため、中部・東部ジャワ島のマタラム王国が栄えた。

17世紀:オランダの進出、ポルトガルの後退

17世紀のバタヴィア(wiki)

 17世紀になると、オランダが東南アジア貿易に参入した。1602年、オランダは東インド貿易会社(VOC)を設立。1611年、オランダは西ジャワのジャカルタに商館を建設。バタヴィアと改名した。

バタヴィアの地図

 続けて、オランダは他のヨーロッパ勢力を駆逐していった。1623年、アンボイナのイギリス商館員を虐殺。1641年、ポルトガルからマラッカを奪った。

 一方で、オランダに拠点をうばわれたポルトガルは、東ティモールに後退した。

6. 植民地化 〜海上貿易から陸上支配へ〜

18世紀:陸上支配へ

オランダ植民地の形成

 17世紀後半、オランダはイギリス・フランスとの競争に巻き込まれた。そこで、オランダは貿易の支配のみならず、農園経営に乗り出した。植民地化の開始である。

 特に18世紀になると、コーヒーの生産をはじめ、大成功をおさめた。

 1641年に獲得したマラッカに加えて、1755年にジャワ西部のバンテン王国、1813年にジャワ東部の新マタラム王国を滅ぼして、植民地にくみこんだ。

1830年:強制栽培制度

ファン=デン=ボス
ファン=デン=ボス

 1799年、財政破綻が明らかになったオランダ東インド会社(VOC)は、解体された。

 財政再建を進めるために、1830年、東インド総督ファン=デン=ボスは強制栽培制度をしいた。農民は決められた輸出用商品作物の栽培を強制された。

 強制栽培制度は1860年代まで実施され、オランダの植民地支配は強化された。

1870年:強制栽培制度の廃止後

 1870年、オランダは自由主義を打ち出した。民間企業による自由な経済活動が認められた一方、増え続ける農民は貧しくなっていった。

 1901年、「ヨーロッパ人が野蛮人を文明化させる」という倫理政策を採用し、生活水準を改善しようとした。

1912年:オランダ領東インド植民地の完成

オランダ領東インド

 また、1912年に、現在のインドネシアの領域がオランダによって植民地化された。最後の現地政権アチェ王国を滅ぼしたのである。

 結果、これをもってオランダ領東インド植民地は完成した。

7. 脱植民地化

民族運動の開始

カルティニ
民族運動・女性運動をしたカルティニ(wiki)

 オランダ領東インドで、西洋式教育を受けた人々に自立の意識が芽生え始めた。

 オランダからの独立は成功しなかったが、「東インド」にかわって「インドネシア」が使われるようになり、民族運動は盛り上がっていった。

第二次世界大戦:オランダ支配の終焉

太平洋戦争における日本軍の最前線

 1941年12月、日本軍はハワイ真珠湾攻撃の65分前にマレー半島に上陸した。第二次世界大戦の開始である。

 そして、1942年1月、インドネシア侵攻を開始し、3月には、オランダ軍を全面降伏させた。

 「東亜の解放」をかかげる日本軍を、インドネシア人は解放軍として受け入れた。あっけないオランダ支配の終焉は、インドネシア人に強いショックを与えた。

第二次世界大戦:日本による軍政

 しかし、日本の目的はインドネシアの独立ではなく、インドネシアの石油であった。

 また、インドネシア人を「ロームシャ(労務者)」として過酷な環境で働かした。多くのロームシャが命を落とした。

 日本の支配に対する反乱が発生し、日本軍は弾圧した。

8. インドネシア共和国

インドネシア独立戦争

インドネシア独立宣言
インドネシアの独立宣言(wiki)

 1945年8月15日に日本軍が連合国に無条件降伏した。そこで、1945年8月17日、スカルノは、海軍の前田精の邸宅でインドネシアの独立を全世界に宣言した。

 1週間のうちにインドネシア共和国憲法を作成し、猛烈なスピードで国家体制を整えた。

 独立宣言をうけて、オーストラリア軍、オランダ軍、イギリス軍が再植民地化のために攻撃を開始した。インドネシア独立戦争である。

 インドネシア共和国は、非共産主義を明確に打ち出し、アメリカの支持をえた。結果、国連が独立を支持。1949年、ハーグ協定で、インドネシア共和国は独立を達成した。

議会制民主主義期

 インドネシア共和国の独立後、一時的に政党政治が実施された。

バンドン会議の会場
バンドン会議の会場(wiki)

 外交では、1955年に「有色人種による世界最初の国際会議」とされたバンドン会議を開き、アメリカ陣営とソ連陣営とは独立した「第三世界」の存在を示した。

 しかし、政党と官僚との癒着が進み、政治は腐敗した。

スカルノのナサコム

スカルノ
スカルノ

 1956年、カリスマ的指導者スカルノは「指導される民主主義」を主張。民族主義・宗教・共産主義を3本柱とするナサコム体制を確立した。

 さらに、スカルノは総力戦体制を築き、西イリアンを最終的にインドネシア領とした。こうして、現在のインドネシア領が完成した。

デヴィー夫人
デヴィー夫人(wiki)

 ちなみに、1962年、スカルノは根本七保子を第三夫人とした。デヴィー夫人のことである。

 しかし、1965年の9月30日事件で最終的に失脚した。

スハルトの権威主義体制

スハルト
スハルト(wiki)

 1967年、スハルトが大統領となった。アメリカの大学で近代経済学を学んだ官僚を中心に、「開発」による工業化を進めた。対外解放が進んだため、日本企業はインドネシアに進出した。

 1976年、スハルトはポルトガル植民地だった東ティモールを併合した。

 1997年、アジア通貨危機が発生すると、スハルトの腐敗が露呈し、学生運動が盛り上がった。結果、軍や与党からも見放され、スハルトは失脚した。

2000年以降

ジャカルタの夜景
現在の首都ジャカルタ(旧バタヴィア)(wiki)

 インドネシアで民主化が進んだ。2002年には東ティモールは独立した。

 以後、インドネシアは順調な経済成長を続け、東南アジア内での地位を高めている。

現在のインドネシア共和国

スローガン:多様性の中の統一

人口:2.7億人

国際関係:ASEAN本部所在国

    :東南アジアで唯一G20に参加

  

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