現役東大生のしまうまです。ここではローマ建国から現代イタリアにまで続く、イタリアの歴史を高校世界史の範囲でわかりやすくまとめました。
古代ローマで見せ場を迎えるも、中世には分裂状態でわかりづらいイタリア史ですが、これを読めばばっちり流れを掴めます。
地図もつけたので、ぱっぱとイタリア史を概観できます。
1. 古代ローマ
- 前753年伝説上のローマ建国
狼に育てられた双子ロムルスとレムスがローマを建国した。
- 前509年共和政ローマの成立
王を追放され、王を持たぬ「共和政ローマ」が成立した。
- 前272年イタリア統一
共和政ローマはイタリア半島を統一する。
- 紀元前264年〜紀元前146年ポエニ戦争
貿易強国カルタゴをポエニ戦争で破り、地中海帝国の建設へ前進した。
- 紀元前50年頃カエサル
ガリア遠征をし名声を高めたユリウス=カエサルは、共和政の中核である元老院と対立。ローマへ進軍し、独裁官についた。
July(7月)はユリウスが由来。
- 紀元前27年実質的な帝政ローマの始まり
アウグストゥス帝の頃に作られたパンテオン(wikiより) オクタウィアヌスはクレオパトラ率いるプトレマイオス朝エジプトを滅ぼし、地中海帝国を完成。
前29年にプリンケプス(元首)、前27年にアウグストゥス(尊厳ある者)の称号を得て、実質的な帝政をはじめた。
August(8月)はアウグストゥスが由来。
- 80年コロッセオ建設
剣闘士が殺し合いをしたコロッセオ(wikiより) - 100年頃ローマ最盛期
紀元後100年頃には、北はイギリス・西はスペイン・南はエジプト・東はメソポタミアに至る大帝国へと成長した。
シルクロードと海の道で、中国(後漢)とも繋がった。
- 326年殉教者記念教会堂の設立
現在の聖ペテロ大聖堂(サンピエトロ大聖堂)(wikiより) また、326年に聖ペテロの墓とされた場所に殉教者記念教会堂が建てられた。この地には後にサン・ピエトロ大聖堂が建てられ、やがて現代に続くローマ=カトリック教会の本拠地となる。
- 330年ローマ市、地方都市に転落
330年、コンスタンティヌスは都をローマからコンスタンティノープルに遷す。ローマは帝国の地方都市へと転落するのである。
遷都の背景には、東部は貿易で経済的に豊かになる一方で、西部はゲルマン民族の軍事的圧力で疲弊していたからである。
- 395年西ローマ帝国(首都:ラヴェンナ)の誕生
395年、ローマ帝国は東西に2分される。西ローマ帝国の都はラヴェンナにおかれた。
- 400年頃北方属州の放棄
西ローマ帝国は北方の属州を放棄した。
- 476年西ローマ帝国滅亡
傭兵隊長オドアケルは、西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位させ、西ローマ帝国の歴史に終止符をうった。い
2. 辺境化するイタリア

これから中世イタリアを見ていくわけだが、中世を通じてイタリアは分裂状態にある。だから、北イタリア、中部イタリア、南イタリアで分けて考えるとわかりやすい。
- 493年東ゴート王国が建国
ゲルマン民族の東ゴート族が東ゴート王国を建国。
- 554年東ローマ帝国ユスティニアヌスによる支配
東ローマ皇帝のユスティニアヌスがイタリアを制圧。
- 568年ランゴバルト王国
ゲルマン民族のランゴバルト族がイタリアの大部分を支配した。
- ローマ教会視点のイタリア情勢
ローマ教会にとって、ランゴバルト族のイタリア支配は危機的であった。ローマ教会は、キリスト教徒の政治的庇護者を欲していたのだった。
そこで、ローマ教会は496年にアタナシウス派(ローマ教会的な正統教義)に回収していたフランク王国に目を付ける。
- 756年ピピンの寄進
フランク王国ピピン3世はランゴバルトを攻撃し北部を手中におさめた。また、ラヴェンナが教皇に贈られ、中部に教皇国家が成立した。
- 800年西ローマ帝国の復活(!?)
800年クリスマス、フランク王国のカール大帝が、ローマ教皇より帝冠を授けられた。理念的には西ローマ帝国が復活したことになる。
- 843年中部フランク王国の成立
ヴェルダン条約でフランク王国が、東フランク、西フランク、中部フランク(イタリアとロタール)に分裂。
- 870年イタリア王国の成立
メルセン条約で中部フランクの北部を東フランクと西フランクで分け合い、中部フランクの南部がイタリア王国となった。
- ローマ教会視点のイタリア情勢
ローマ教会にとって、せっかく東ローマ帝国に対抗できそうなフランク王国を政治的庇護者としたのに当てが外れて、分裂してしまった。
そこで、ローマ教会は、分裂した中で最も強い東フランク王国に目をつけた。
- 962年神聖ローマ帝国の誕生(とされる)
東フランク王国のオットー1世が西ローマの帝冠を授かる。この戴冠をもって、神聖ローマ帝国の成立とされる。
- 1000年頃イタリアが辺境と言われるわけ
1000年ごろ、地中海は西ヨーロッパ・東ヨーロッパ・イスラーム世界が三分していた。イタリアには各世界が食い込んでおり、どの世界から見ても辺境であった。
- 北部・・・<西欧>神聖ローマ帝国
- 中部・・・<西欧>教皇国家
- 南部・・・<東欧>東ローマ帝国領
- シチリア島・・・<イスラーム>イスラーム政権
3. 都市国家の繁栄
- 10〜11世紀コムーネの成立
経済力をつけた北イタリア(神聖ローマ帝国領)の都市は、自治権を要求。都市共和国(コムーネ)が成立した。
- 1095年十字軍の提唱
ローマ教皇がイエスが復活した聖地エルサレムの奪還を目指す十字軍を提唱。200年の間に数度も実行された。
- 十字軍の経済効果
十字軍はイタリア商人の海運力を基盤としており、北イタリアはイスラームやビザンツ帝国との東方貿易で栄えた。
- 1130年シチリア島のイスラーム勢力追い出される
1130年、ノルマン人がイスラーム勢力をシチリアから追い出した。
このとき、ノルマン人は、イスラーム世界に保存されていた古代ローマ文化を再発見。12世紀ルネサンスを起こす。
- 1204年ヴェネツィア、一時的に東ローマ帝国を滅ぼす
現代のヴェネツィア(wikiより) 「アドリア海の女王」「水の都」と言われるヴェネツィア。1204年、第四回十字軍と称して、東ローマ帝国にとして艦隊を送り、コンスタンティノープルを落した。
この時にクレタ島を獲得。東地中海最強の海軍国家となった。
- 14世紀ルネサンスの開始
14世紀、ギリシア・ローマ時代の文化を模範とする文芸復興運動「ルネサンス」が、北イタリアで興った。
15世紀まで続くイタリア=ルネサンス3大巨匠の作品↓
- レオナルド=ダ=ヴィンチ『最後の晩餐』
(wikiより) - ラファエロ『アテネの学堂』
(wikiより) - ミケランジェロ『ダヴィデ像』
(wikiより) - 15世紀五大国の連合
ヴェネツィア・ミラノ・フィレンツェ・教皇国家・ナポリが連合。平和が訪れた。
4. 混乱の時代
- 1494年イタリア戦争勃発
1494年、中央集権化が進んだフランスは北イタリアを支配するため、イタリア戦争を開始した。
- 1559年イタリア戦争終結 〜ハプスブルク帝国へ
フランスを破ったのが、神聖ローマ皇帝を世襲していたハプスブルグ家。
1559年のイタリア戦争終結までに、ハプスブルグ家は以下の国々を支配下に組み込んだ。
・近代イタリア王国を建国するサルデーニャ
・五大国の3カ国(ミラノ・ナポリ・フィレンツェ)
・ヴェネツィアの好敵手ジェノヴァ
・12世紀ルネサンスの起きたシチリア
こうして、フランスを囲い込む形で、スペイン・ドイツ・オランダ・イタリアがハプスブルグ帝国を形成した。
- ルネサンスの中心地は西欧へ
イタリア戦争でイタリアの都市は疲弊。華やかなルネサンスの中心は、イタリアから西ヨーロッパへと移った。
- 1713年スペイン継承戦争
フランス(ブルボン朝)はハプスブルグ帝国に挑戦した。
1714年、スペイン継承戦争でスペイン王位を奪い、フランス包囲網を破った。さらに、南イタリアを獲得した。
結果、北イタリアのハプスブルク勢力と、南イタリアのブルボン勢力が並存するようになった。
- サルデーニャ王国の成長
スペイン継承戦争に際して、オーストリアに協力し、フランスの北イタリア侵入を阻んだサルデーニャ王国が強国化した。
- 1762年トレヴィの泉建設
1762年に完成したトレヴィの泉(wikiより) 世界一有名な噴水が建設された。
5. イタリア統一へ
- 1789~1815年フランス革命
1789年、フランス革命が勃発。
混乱の中で、ナポレオンがフランス皇帝に即位し、フランス軍がヨーロッパを蹂躙した。
その後、ヨーロッパ諸国は反撃し、1814年にナポレオンを島流しにした。
- 神聖ローマ帝国の解体
ナポレオンによるライン同盟創設により、1806年、神聖ローマ皇帝は帝国の解体を宣言。
- イタリア統一運動の始動
フランスの革命精神にふれたイタリア人は、「自由」や「平等」、民族復興を意味する「リソルジメント」といった近代用語を使用しはじめ、近代化を目指すようになる
- 1815〜1848年ウィーン体制
1815年〜1848年の国際的反動体制「ウィーン体制」の下で運動は失敗に終わった。
- 1861年イタリア王国の誕生
宰相カヴールのもと、近代化をすすめるサルデーニャ王国は、フランスへの協力を通じて北イタリアに勢力を広げた。
1859年、イタリア統一戦争でロンバルディアを奪取し、1860年のガリバルディの活躍で両シチリ王国領を獲得した。
エマヌエーレ2世記念堂(wikiより) こうして、1861年、サルデーニャ国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世がイタリア王に即位し、イタリア王国が誕生した。首都はフィレンツェに定められた。
- 1870年イタリア統一の完成
1866年、ヴェネツィアを併合。1870年に教皇領を併合。イタリア統一が完成した。
しかし、「未回収のイタリア」とよばれる地域がオーストリアに取り残されていた。
6. イタリア王国と帝国主義戦争
- 1871年ビスマルク体制
1871年、ドイツ帝国が誕生。ドイツ帝国宰相ビスマルクは、フランスを孤立させるため、イタリア・ドイツ・オーストリアで三国同盟を結んだ。
しかし、「未回収のイタリア」でイタリアとオーストリアは険悪な関係だった。
- フランス・ロシアとの密約
ビスマルクの孤立政策をを打破したいフランスと、南下政策のためにバルカン半島を狙うロシアを密約を交わした。
- 1911年イタリア=トルコ戦争
トリポリとキレナイカをオスマン帝国から奪った。これは密約により承認されていた。
- 1914~1918年第一次世界大戦
1914年、連合国陣営と、同盟国陣営に分かれて第一次世界大戦が勃発した。イタリアは、「未回収のイタリア」のために参戦。第一次世界大戦の戦勝国となった。
- 1922年ファシスト党ムッソリーニが首相に
1922年、武力でもってムッソリーニは首相になり、個人主義をうむ自由主義を批判。全体主義の道を進んでいった。
- 1929年ヴァチカン市国誕生
ムッソリーニは、ヴァチカン市国建国を許し、70年ぶりに教皇領が復活した。
- 1939〜1943年イタリアの第二次世界大戦
ヒトラーが開始した第二次世界大戦に、イタリアは参戦した。しかし、次々にイタリア軍は敗退。ムッソリーニ政権は倒れ、1943年に無条件降伏した。
7. イタリア共和国
- 1946年王政の廃止、イタリア共和国の成立
1946年、王政か共和政かを問う国民投票が実施され、僅差で共和政が勝利。王政は廃止され、イタリア共和国が成立した。
- 冷戦期キリスト教民主党の政権
キリスト教民主党が政権を50年近く維持した。資本主義陣営に属し、米国の支援で経済復興。1950~60年代には「奇跡的復興」と呼ばれる経済成長が実現した。
- 1992年キリスト教民主党の解体
冷戦終結後、反マフィア運動が展開。1992年、ミラノで汚職事件が摘発されると、マフィアと国家中枢の関係が明らかになり、根本的な改革が迫られた。キリスト教民主党は解体され、今に至る。
- 現在イタリアの今
イタリア最大の都市圏ミラノ(wikiより)