卒業 〜人的資本の陳腐化〜

学校の勉強に意味がないとするなら、どのような形でその弊害が現れるのでしょうか?

要約

 教育が、社会で通用する力の養成を忘れ、学力試験のスコアアップに注力する場合があるでしょう。教育が教育の目的になる「教育の自己目的化」です。そのとき、社会にでる直前の卒業式とは、若者が積み上げた「勉強」が音もなく崩れ落ちて陳腐化するセレモニーになってしまうでしょう。

教育者の守備範囲

 教育とは、若者の未来を伸ばすためにあります。けれども、教育者は、入学から卒業までしか若者と関わることができません。肝心の未来がどうなっているのか(※社会で通用する人的資本)については、制度上無頓着になりやすいでしょう。

教育の自己目的化

 さて、このとき、何が起きやすいのかというと、教育自体が教育の目的となることだと思います。いい中学・いい高校・いい大学に受かるための教育というのが、その際たる例です(※受験で通用する人的資本)。最終地点の大学の社会的評価が高ければそれでいいのですが、就職の際、大学自体学んだことをあまり重視されないと聞いたことがあります。

部分最適と全体最適

 もちろん、生徒にとってはいい大学に行くと未来が開けやすいわけですから、受験特化教育も「局所的」にはいい教育なわけです。

 しかし、「大局的」に考えると、席に誰が座るかで競争しているだけであって、いい席をどれだけ増やすかということには寄与していないのではないでしょうか。

人的資本が陳腐化する瞬間

 このとき、卒業式とはせっかく積み上げた人的資本が瞬時に陳腐化するセレモニーになってしまうのです。

図1:学校時代に積み上げた人的資本が卒業式の瞬間に陳腐化する悲しさ

 学歴獲得による賃金上昇は事実ですから生徒が受験勉強するのは、生徒のためになります。教育者がそれを支援するのは当然です。間違ってるところがあるなら、教育のデザインそのものです。

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