高校世界史の知識でイラク史を解説します。
初学者の方は、地図と太字を飛ばし読みでさらうだけで大丈夫なので、一緒にイラク史の流れを掴んでしまいましょう!
0. イラク史とは?

イラクは、メソポタミアと呼ばれる地域にある現代国家。イラク史をメソポタミア史と考えることにする。メソポタミアは、「川の間」の意味。
エジプトと異なり、様々な勢力がこの肥沃な地に到来したため、メソポタミア史は主に混乱しているイメージである。
1. 古代メソポタミア時代
古代イラクの歴史である。最も古い時代から文明が栄えた。
世界史教科書的に、中国は5000年の歴史と言えないが、イラクは5000年の歴史と言える。なお、アメリカは500年程度の歴史しかない。
- 前3000年シュメール人の都市国家
ウルのジッグラト シュメール人が、人類最古の都市文明が築く。領域国家ではなく、都市国家である。
文化:『オデュッセイア』や『アーサー王物語』に並ぶ世界的な文学作品『ギルガメッシュ叙事詩』を産んだ。
- 前24世紀~アッカド王国
はじめてメソポタミアを統一した。
経済:アッカド語は、当時の国際共通語だった。
文化:アッカド語は、2500年にわたり、100万点の資料を残した。
- 前20世紀~古バビロニア王国
ハンムラビ法典(wikiより) ハンムラビがメソポタミアを統一。「目には目を、歯に歯を」で有名なハンムラビ法典が作られた。
首都:バビロン
滅亡原因:鉄製武器を使うヒッタイトの攻撃
- 前16世紀~受験世界史での空白期
北部:ミタンニ
南部:カッシート
- 前8世紀~アッシリア
前7世紀前半、オリエントを史上初めて統一した。
しかし、過酷な支配で反乱がおこり、短期で滅亡した。
建国:前2000年紀(結構、昔である。その後、ミタンニに複属)
滅亡原因:重税と圧政で反乱が発生
対ユダヤ:イスラエル王国滅ぼす
- 前625年〜新バビロニア王国
バビロン捕囚(wikiより) 建国:前625年、in バビロン
対ユダヤ:「バビロン捕囚」:前586年、ネブカドネザル2世はユダ王国を滅ぼし、ユダヤ人をバビロンに連行した。
滅亡原因:前538年、アケメネス朝ペルシアに敗北
- 前538年アケメネス朝ペルシアによる支配
前538年、アケメネス朝ペルシアがバビロン を陥落させる。
オリエントを再統一。寛容な支配で長期にわたりオリエントを支配した。
統治:サトラップ(知事)を派遣。王の目・王の耳で監視した。
首都:冬の宮殿バビロン、夏の宮殿エクバタナ 、行政首都スサ、宗教首都:ペルセポリス
滅亡原因:アレクサンドロス大王に敗北
2. ヘレニズム時代
さて、イラク史の混乱ぶりがまたもや露呈する。アレクサンドロス大王の東征だ。イラクには、数百年もの間ギリシア文化が残ることになる。この時代をヘレニズム時代という。
- 前330年アレクサンドロス大王の東方遠征
ギリシアからきたアレクサンドロス大王がこの地を征服した。
アレクサンドロス大王 滅亡:アレクサンドロス大王は一匹の蚊によって熱病にかかり、バビロンで死んだ。その際に後継者を指名しなかったため、戦争がおきた。
- 前312年〜セレウコス朝シリア
アレクサンドロス大王の遠征地域を基盤に、ギリシア系の王朝が建国された。
首都:セレウキア(バビロンに代わる都)・アンティオキア
文化:ギリシア風(アレクサンドロスの影響)
滅亡原因:前64年、ポンペイウス率いるローマ軍の攻撃
- 紀元後100年頃ローマ帝国
イタリアのローマ帝国も一時期、メソポタミアを支配した。
3. ペルシアによるメソポタミア支配
ヘレニズム時代が終わると、イラクはイランに支配された。
- 紀元前1世紀パルティア
建国者:イラン系のアルサケス
経済:漢とローマを結ぶ通商路を支配し、栄えた。中国名は「安息」。
首都:クテシフォン
文化:ギリシア風だったが、徐々にイラン文化に変質。
滅亡:224年、ササン朝のアルデシール1世による攻撃
- 224年ササン朝ペルシア
3世紀から7世紀まで、ササン朝ペルシアがこの地を支配した。ライバルはローマ帝国。
首都:クテシフォン
文化:イラン文化が完全復活(ゾロアスター教が国教化)
最盛期:6世紀のホスロー1世の時、東ローマ帝国ユスティニアヌスと争った。
滅亡原因:イスラーム勢力によるジハード。
- 642年ニハーヴァンドの戦い
背景:ムハンマドがイスラーム教を創始。急速に勢力を拡大。
経緯:正統カリフのウマルがササン朝ペルシアを破る。
歴史的意義:この地は永久にイスラーム化することになる。
4. 世界の都バグダード
7世紀以降、イスラーム圏が、スペインからインドまで広がった。このイスラーム圏の中心地として、バグダード(今のイラクの首都)が繁栄するのである。
イラクの最盛期である。
- 630年(ムハンマドのアラビア半島統一)
メッカのカーバ神殿 ムハンマドのもとでアラビア半島が緩やかに統一された。
- 632年~(正統カリフ時代)
ムハンマドが死去し、正統カリフ時代に入る。
補足:正統カリフ2代目のウマルが、642年、ニハーヴァントの戦いでササン朝ペルシアを破った。
- 661年〜ウマイヤ朝(アラブ帝国)
ダマスクスを首都に巨大な帝国が築かれた。アラブ人が特権階級であり、アラブ帝国とも言われる。
建国:カリフの継承からあぶれたムアーウィアが、ウマイヤ朝を建国。
首都:ダマスクス(現在のシリア)
中国名:白衣大食
- 750年〜アッバース朝(イスラーム帝国)
750年、反ウマイヤ運動を利用して、アブー=アルアッバースがアッバース朝を建国。イスラーム教徒を平等に扱ったので、イスラーム帝国と言われる。
2代目マンスールがバグダードを建設し、首都とした。バグダードは、東南アジアやインドと繋がった国際都市となり、100万都市へと成長。東の長安(唐)と並ぶ世界一の都市へとなった。
建国:750年
首都:バグダード(766年完成)
全盛期:ハールーン=アッラシード(←千夜一夜物語にも登場 例:アラジン、シンドバッド、アリババ)
文化:知恵の館:830年開設。古代ギリシア文献の組織的翻訳が行われた
中国名:黒衣大食
衰退の原因:ザンジュの乱(869年~883年)
アッバース朝カリフの権威:政治的実権は失われても、カリフは宗教的権威を保った。将軍に対する天皇のようなものである
- 946年ブワイフ朝のバグダード入場
背景:イスラーム世界で地方政権が勃興
経緯:アッバース朝が弱体化し、イラン系のブワイフ朝がバグダードに入城。
結果:アッバース朝カリフから大アミールに任じられ、ブワイフ朝がこの地を支配した。
- 1055年セルジューク朝のバグダード入城
経緯:トルコ系のセルジュール朝が、1055年、バグダードに入城。
結果:アッバース朝カリフから「スルタン」に任じられ、イスラーム世界の政治的指導者の立場に立った。
補足:1071年、ビザンツ帝国を破った。これが約30年後の十字軍の遠因になる。
滅亡:1157年
- 12世紀ホラズム=シャー朝
原因:セルジューク朝が滅亡
結果:ホラズム=シャー朝がこの地に進出した。
滅亡原因:チンギス=ハン率いるモンゴル軍の攻撃
- 1258年バグダード陥落
1258年、モンゴル軍はアッバース朝を滅した。
以後、バグダードはイスラーム世界の地方都市に転落する。
5. ペルシアによるメソポタミア支配
アッバース朝はモンゴルによって滅ぼされた後、ペルシアの帝国に支配されることになる。
- 1260年〜イル=ハン国
建国:モンゴル人のフラグがイル=ハン国を建国した。
文化:イラン=イスラーム文化が栄えた。
歴史的意義:イル=ハン国とエジプト・マムルーク朝の対立の中で、メソポタミアは国境地帯と化し、バグダードは衰退した。
一方で、エジプト・マムルーク朝の首都カイロが、バグダードに代わるイスラーム世界の中心地として栄えた。
- 1393年〜ティムール帝国
1393年、ティムール帝国はイル=ハン国を併合した。
建国:1370年、トルコ系のティムール
首都:サマルカンド(現ウズベキスタン)
対外遠征:ティムールはオスマン軍を撃破、明(永楽帝)討伐の途上で死去した。
文化:トルコ人とイラン人の世界が融合し、トルコ=イスラーム文化が栄えた。
- 1508年〜サファヴィー朝ペルシア
イスマイール1世がバグダードを占領した。
建国:1501年、神秘主義教団の長イスマイール1世が、タブリーズで建国
新首都:イスファハーン
外交:アッバース1世のときに初めてヨーロッパ諸国と外交関係を結んだ
6. オスマン帝国の支配
ペルシアに代わって、トルコの支配に屈する。
- 16〜17世紀オスマン帝国とサファヴィー朝
オスマン帝国のスルタンと、サファヴィー朝のシャーで抗争が勃発。
- 1508年:サファヴィー朝のイスマイール1世
- 1534年:オスマン帝国のスレイマン1世
- 1623年:サファヴィー朝のアッバース1世
- 1634年:オスマン帝国のムラト4世
と支配者が二転三転した。
- 17世紀半ば〜オスマン帝国
イスタンブールのスレイマン=モスク トルコのイスタンブールを都にするオスマン帝国の支配が確立。
徐々にバグダードは復興を遂げる。
建国:1299年、アナトリア半島で建国
首都:イスタンブール(東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを、1453年に陥落させ、改名した)
- 19世紀ヨーロッパ勢力の攻勢
1683年、オスマン帝国は第二次ウィーン包囲に失敗。1699年のカルロヴィッツ条約より、劣勢に立たされる。
19世紀に入ると、ヨーロッパ諸国は本格的にオスマン帝国領土を奪い取っていった。
19世紀後半には、この地は、ロシア帝国の南下政策、イギリスの3C政策、ドイツの3B政策が絡み合う戦略的地域へとなった。
- 19世紀オスマン帝国の内部改革
- 西欧化政策(タンジマート):イスラーム教国から法治国家へ転換。しかし、西欧製品の流入で国内産業が崩壊した。
- 1878年ミドハト憲法:アジアで初めての憲法。ここで立憲制が成立。しかし、スルタンがロシア=トルコ戦争を口実にすぐに停止。
- 1908年青年トルコ革命:日露戦争でアジア人が勝利すると、青年将校らがミドハト憲法を復活させた。しかし、国政は混乱した。
7. 現代「イラク」の成立
オスマン帝国がヨーロッパ勢力に敗れ、イラクは独立する。しかし、20世紀も、欧米列強に振り回され、政情不安定が続くのである。
- 1914〜
1919年第一次世界大戦とその後第一次世界大戦(1914年〜1918年)を、ドイツ側で戦ったオスマン帝国は敗戦。
オスマン帝国はセーブル条約でアラブ地域を喪失した上に、サイクス=ピコ条約で国土分割の危機に瀕した。
1922年、オスマン軍人ムスタファ=ケマルは、スルタン政を廃止。1924年にカリフ制も廃止するなどの世俗化改革を推進。
ローザンヌ条約でトルコ共和国を認めさせた。トルコはこの過程で、メソポタミアを喪失した。
- 1922年イギリス委任統治領メソポタミア
メソポタミアは、オスマン帝国に代わって、イギリスが委任統治した。このとき、
- 北部クルド人地帯
- 中部スンナ派・シーア派地帯
- 南部シーア派地帯
が同じ国におかれた。これが現在のクルド人問題、スンナ派・シーア派対立問題の背景になる。
- 1932年〜イラク王国
独立:1932年、イラク王国が独立した。
アラブとして:1945年、エジプトが中心のアラブ連盟に加盟し、アラブ統一の運動に同調した。
アラブ連盟は、ユダヤ人の新国家イスラエル(1948年建国)に反対し、1948~49年、第一次中東戦争を戦った。
米英側として:1955年、バグダード条約機構(METO)に加盟。共産主義の防波堤をとして、米英と協調路線をとった。
- 1958年イラク革命勃発 イラク共和国へ
アラブとして:アラブ民族運動に影響され、1958年、イラク革命が勃発し、米英よりの王政が打倒された。
こうして、反米・反英のイラク共和国が建国された。
1968年、「大西洋からペルシア湾に及ぶアラブ語民族完全な統合」を目指すバース党が政権を獲得した。
- 1980~88年イラン=イラク戦争
背景:1979年、イラン革命でシーア派政権がイランに誕生。
経緯:シーア派住民の多いイラクの内部分解を恐れて、フセイン大統領がイラクを攻撃。
結果:1980年から1988年にかけて、イラン=イラク戦争を展開した。
補足:アメリカは、イラン革命の波及を恐れて、イラクを支援した。
- 1991年湾岸戦争
- 2003年イラク戦争
バグダードの米軍(2004年) 背景:2001年、9.11同時多発テロ
経緯:アメリカが大量破壊兵器が存在しているとしてイラクへの攻撃を開始
結果:1979年からのフセイン政権は倒れた
補足:大量破壊兵器は存在しなかった
- 2014年イスラミック・ステート(IS)が建国宣言
イスラム原理主義国家であるISが建国を宣言。
2019年現在、支配領域は小規模になったが、いまだに正常不安定であることが浮き彫りになった。
- 現在今のイラク
バグダード(wikiより) 面積は43万平方キロメートルで日本より一回り大きい。人口は3000万人。
ほぼ全土が砂漠。5000年にわたり人類が居住していたため、野生の大型ほ乳類はほぼ存在しない。
石油埋蔵量は世界第3位。