「制約はあるけれども、自分自身の『よいと思う』を大切にしてください」が文化や価値観についての唯一の普遍的なメッセージであり、しまうま総研はその他の文化や価値観に関する具体的な問題を扱わないことにする。文化は、人が築き上げてきた価値である。充足感のある人生とは、自分の価値観に合った価値をどれだけ摂取できるかにかかっていると言えよう。
なぜしまうま総研で文化を扱わないのか。それは、普遍的な価値観は存在しないからだ。価値観は、個人の自由だ。この自由を、歴史、能力、共通認識、法が制約する。価値観は過去の学習の積み重ねであり、経路依存性をもつ。能力を超えた範囲には、手が届かない。共通認識は、常識、慣習、文化とも呼ばれ、やんわりと行動を規定する。法は、国家権力をもって自由を制限する。なお、共通認識は、その時代、その場所の多様な主体がもつ価値観の均衡として実現する。以上の結果として、個人の価値観が再生産される。

なぜしまうま総研の管理人が経済学に注目しているのかを説明したい。「価値観は自由」のためには、具体的な次元で社会的な望ましさについて議論するのは不可能だ。「社会的によいことの集団的な追求」と「個人の価値観の自由」は、両立し得ない。しまうま総研が経済学に注目する理由がここにある。しまうま総研は社会的な望ましさについての普遍的な議論を展開することを意図している。そして、経済学は、特定の文化を前提にしない(※追記へ)ので、結論は普遍性を持つ。具体的には、経済学は価値観を効用関数と言い換えて、その詳細には踏み込まず、自分の効用関数で行動を決めることを「合理的」と肯定する。その上で、本ブログで展開するような議論によって、経済学は望ましい社会のあり方に想いを馳せる。経済学は、私のように抽象的な意味で社会を良くする方法を考える人の価値観に合った文化の一つだ。しまうま総研は価値観の多様性を包摂する。
【追記】
※特定の文化を前提に生きることは、効果的な処世術だ。「自分がいる時代、自分がいる場所、自分がもつ能力」という条件付き人生空間における最適行動の予測誤差が小さくなる。一般にこれを「染まる」という。染まれば、その集団内で生きやすくなる。ただし、それはその集団外でも通用するとは限らず、それは次の時代でも通用するとも限らない。
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