自由の下では、社会的な望ましさを具体的な次元で描くことはできない。なぜなら、万人が共有できる価値を定義できないからだ。本来的な自由の下では、すべての物事を肯定することも、否定することも許されている。
しかし、自由のふわふわとした苦しさは、むしろ社会的な望ましさを明らかにする原動力となる。自由のふわふわとした苦しさとは、「私がそう思うから」という根拠薄弱な価値観しか持てない苦しさである。哲学者、無神論者、実存主義者のサルトルは「人は自由の刑に処せされている」と言った。少なからぬ思春期若者の心理でもある。私の母校は、自由が校風であった。この学園に皆が拠り所にできる望ましさはなく、自由な楽園であると同時に、価値を巡るヒリヒリとした闘争の場でもあった。理由なき東大志望は批判的に語られつつも、4人に1人が東大に進学した。金青赤緑といった髪色の生徒の一群が雄叫びを上げる一方で、その髪色はむしろ量産型個性と貶された。野蛮であることが称賛されつつも、知的な語りが尊敬の対象となった。
ならば《私》は「好き」に回帰して社会的望ましさを語ろう。特定の価値観は特定の人を否定する。社会的な望ましさを本気で議論するなら、特定の価値観を前提にしてはいけない。「好き」を選ぶ行動を、経済学では合理的な選択と呼ぶ。価値観は、効用関数という形で抽象化される。特定の価値観を前提にせず、多様化な価値観を前提にその先の社会的望ましさについて議論する道が開けるのだ。
【追記】
合理的選択理論は、経済学の中核的な考え方である。経済学は、合理的選択の上に精緻な数理的体系を組み立て「社会科学の女王」と呼ばれた。また、経済学者は、合理的選択を手かがりに社会学、政治学といった各分野に進出したために「経済学帝国主義」と反発された。
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