ウィーンの歴史 / 東欧の文化都市

都市
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 年表と地図で東欧の文化都市ウィーンの歩みがわかります。

ウィーンの歴史
  • ケルト人、ヴィンドボナ建設

     紀元前、ケルト人が町を作った

  • 紀元前100年ごろ
    ローマ帝国が征服

     ローマ帝国五賢帝の一人トラヤヌスが征服した。

  • 100年代
    自省録が記される

     最後の五賢帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝が、異民族に破壊されたヴィンドボナを再建。ここで皇帝による哲学書『自省録』が記された。

  • 5世紀
    破壊

     ゲルマン人によって破壊される。しかし、今のウィーンにも古代の都市構造が反映されている。

  • 962年
    神聖ローマ帝国の始まり(とされる)

     オットー1世が古代ローマ帝国の帝冠を、ローマ教皇から与えられ、古代ローマ帝国の形式的な継承者となった。この国を後世、「神聖ローマ帝国」と呼称することになる。

     神聖ローマ帝国の首都はウィーンのイメージがあるが、当初はウィーンではない。

  • 中世中盤
    ドナウ川流通の拠点になる

     中世中期に入り遠隔地貿易が始まると、国際河川ドナウ川に接するウィーンが流通の拠点になった。

  • 1155年
    ハインリヒ2世、ウィーンに移住

     オーストリア辺境伯ハインリヒ2世はウィーンに居住地を移した。翌年、オーストリア公に昇格。

     この頃、オーストリアの都がウィーンになったと言える。

  • 1246年
    ボヘミア王国の支配

     現在のチェコ東部に相当するボヘミア王国オタカル2世がウィーンを支配。

  • 1278年
    ハプスブルク家の支配

     勢力を拡大させるボヘミア王オタカル2世への警戒から、1273年、弱小諸侯のハプスブルク家ルドルフ1世が皇帝に即位。

     1278年、ルドルフ1世は、オタカル2世を破りウィーンを獲得した。

  • 14世紀
    プラハとの競争、建築公の時代
    1365年創設のウィーン大学

     ボヘミア王カレル1世がプラハを発展させる一方で、オーストリア公ルドルフ4世(建設公)がウィーンを発展させた。

  • 15世紀中盤
    神聖ローマ皇帝の拠点へ

     15世紀中盤になると、ハプスブルク家が神聖ローマ帝国を世襲するようになる。こうして、ウィーンは神聖ローマ帝国の首都のような形になった。

     ただし、ウィーン市民は必ずしもハプスブルク家に対して従順でなく、しばしば反乱がおきた。

  • 1529年
    第一次ウィーン包囲

     ハンガリーを飲み込み、バルカン半島に食い込んできたオスマン帝国軍がウィーンを目指した。

     オスマン帝国スレイマン1世はウィーンを包囲したが、冬が来て撤退した。

     キリスト教世界は、イスラーム教勢力の脅威に震撼した。

  • 〜1680年
    ウィーン改造

     イスラーム勢力の襲来に備えて、ウィーン城壁外に空き地を作り、市街地からの一斉射撃で殲滅できる都市構造にした。

  • 1618〜1648年
    30年戦争

     神聖ローマ帝国で宗教戦争が勃発。ウィーンはあまり戦場にならなかったが、神聖ローマ皇帝の権力は衰退した。

  • 1683年
    第二次ウィーン包囲

     オスマン帝国が再び襲来したが撃退。以降、ハプスブルク家とオスマン帝国の立場は逆転。

     オーストリアは複合民族国家「ドナウ帝国」へと成長していく。

  • 1700年〜
    文化の都へ
    シェーンブルン宮殿(wiki)

     空き地の外側に新市壁を建設。この空き地に、貴族たちがこぞって宮殿を構えた。シェーンブルン宮殿などのバロック建築の華やかな宮殿も建設された。

     皇帝や貴族は芸術家のパトロンをし、文化の街へと成長していく。

    18世紀のウィーン(wiki)

    18・19世紀のウィーンで活躍した音楽家

    モーツアルト、ベートーベン、シューベルト、ハイドン

  • 1806年
    神聖ローマ帝国の解体

     1789年に発生したフランス革命の混乱期に台頭したナポレオンに、1805年、アウステルリッツの戦いで敗れた。

     1806年、神聖ローマ皇帝フランツ2世は、神聖ローマ皇帝を放棄。神聖ローマ帝国は解体された。

     同時に、フランス2世はオーストリア皇帝フランツ1世を名乗るようになり、オーストリア帝国内のオーストリアとハンガリーを中心に国づくりを構想した。

  • 1814年
    ウィーン会議

     ナポレオン敗北後、ヨーロッパ国際秩序をどうするかウィーンで会議が開かれた。オーストリア外相メッテルニヒが主導した。

  • 1848年
    ウィーン三月革命

     伝統的な支配体制を否定し自由を求めるウィーン3月革命が発生。メッテルニヒは失脚し、皇帝はフランツ=ヨーゼフ1世(18歳)に変わった。

     複合民族国家オーストリアの多くの民族でも民族運動が高揚した。オーストリア帝国のハンガリー人、チェック人(チェコ人)、ハプスブルク家傘下のミラノ人(イタリア人)などが運動を繰り広げた。

     しかし、10月には運動は鎮圧された。

     なお、この頃のウィーンの人口は40万人。

  • 1858年
    ウィーン改造

     1850年代、セーヌ県知事オスマンがパリ改造に着手し成功した。これを受けて、オスマン帝国の脅威から身を守るため、作られた市壁が撤去された。

     自律的な市民がすむ自治都市から、国民が住む近代都市ウィーンに生まれ変わった。

  • 1861〜1895年
    世紀末ウィーン

     オーストリアはイタリア統一戦争(1859年)、普墺戦争(1866年)で敗北。複合民族国家オーストリアの政治的な威信は揺らいだ。

     1867年には、アウスグライヒにより、オーストリア=ハンガリー二重帝国により国内統治を安定させようとするほどであった。

     一方で、フランツ=ヨーゼフ1世のもと、自由主義的・多民族共存的な気風が、史上稀にみる文化爛熟を産んだ。これを世紀末文化という。

    ・建築:宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地であるウィーン楽友協会

    ・美術:クリムト

    ・音楽:ブラームス

    ・精神分析学:フロイト

    ・哲学:ヴィトゲンシュタイン

    ・数学:ゲーデル(不完全性定理)

  • 1918年
    第一次世界大戦の敗北

     オーストリア帝国は敗北。ハプスブルグ家の皇帝は数百年ぶりにいなくなり、オーストリア共和国が成立した。チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ポーランドなどが独立。

     ヨーロッパ4大都市に数えられたウィーンは、国内の広大な後背地を失い経済的に衰退した。

     大戦末期のウィーンの人口は220万人だった。

  • 政治的混乱

     社会民主主義派と保守派の対立で政情は不安定だった。

  • 1938年
    ドイツに併合される

     ヒトラーのナチズムがオーストリアに狙いを定め、1938年、ドイツに併合され、地方都市へと転落した。

  • 1945年
    オーストリア独立宣言

     ドイツ敗北を受けて、オーストリアは独立を宣言。戦後、ウィーンは米英仏ソ4ヶ国の共同占領下に置かれた。

  • 1955年
    主権回復

     主権を回復した。共産党が支持を得られず、永世中立国として歩むことになる。

     かつてのハプスブルク帝国の国々は共産圏に組み込まれ、「鉄のカーテン」が下ろされた結果、オーストリアは経済的な後背地を失った。このため、徐々に人口が減少した。

  • 冷戦末期
    亡命の経由地

     共産圏は揺らいだ冷戦末期、オーストリアは多くの亡命者の経由地となった。

  • 1989年〜
    ウィーンの成長

     1989年ベルリンの壁崩壊、ビロード革命(チェコスロバキア)、ルーマニア革命で東欧諸国が、共産圏から脱した。

     ウィーンは再びバルカン半島の広大な後背地を獲得することになり、「国際都市」として再び成長を始めた。多国籍企業の進出が相次いでおり、国際会議も開催も世界一となっている。

     一方で、チェコのプラハ、ハンガリーのブタペストと中東欧経済の拠点の座をめぐって競争も始まった。

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