中国の歴史まとめ

国々の歴史
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 4000年の歴史をもつ中国史を、高校世界史の範囲でまとめました。

 初学者は、地図と太字をざざ〜と読んでください。わからないところはバンバン飛ばして、ややこしい流れをつかみましょう!

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1、夏・殷・周

 中国大陸に文明が生まれ、やがて国家が生まれます。

中国の歴史年表1
  • 1万8000年前
    天地開闢

     中国神話の世界観では、天地は非常に近く、その間の盤古が成長することで、天地が開いたとされる。

  •  夏は、伝説上の最古の王朝。中国政府は夏王朝の実在を主張している。

    歴史的意義:中国5000年の歴史の根拠となった。

  • 前17~11世紀

     実在した最古の王朝。

    首都:殷墟

    政治:神権政治 (宇宙の支配者「帝」と「王」の祖先を神として崇拝)

    歴史的意義:中国4000年の歴史の根拠

  • 前11世紀~
    中国の歴史 周の地図 

     殷が倒され、周王朝が開かれた。

    首都:鎬京(→洛邑)

    政治:封建制度:封土を与える代わりに、軍役・貢納を求めた

    思想:易姓革命:王朝交代には、平和的な禅譲と、武力による放伐があり、ともに天命のあらわれという理論

    衰退:前770年、異民族により、鎬京が攻略された。洛邑に遷都するが、周の権威は低下した。

2、春秋戦国時代・秦・漢

 中国では熾烈な国家間競争がおこり、やがて一つの国へと統一されます。強大な皇帝が統べる統一国家の誕生です。

 今後、中国は統一王朝が何代も生まれる稀有な地域世界となるのですが、その開始を意味していました。

中国の歴史年表2
  • 前770年〜
    春秋・戦国時代
    中国の歴史 戦国時代 地図
    戦国の七雄の地図

     乱世であり、各地で覇者が登場した。春秋時代は周王の権威が認められたが、戦国時代になると周王の権威は無視された。

    文化:諸子百家の時代。儒家・法家・墨家などの様々な思想派閥が生まれた。

  • 春秋・戦国時代
    社会の発展

     国家間の交流により、「中国」意識が発生した。また、乱世にあっても社会は着実に進歩した。

    経済:鉄製農具の普及(※ヨーロッパでの普及の1000年前)

      :貨幣経済の進展 (青銅貨幣の使用)

    対外:領土拡大競争の中で中国の領域が拡大

  • 前221年〜
    秦 (初代統一王朝)
    中国の歴史 秦 地図

     

     漫画『キングダム』にも登場する政が、中国を統一始皇帝となる。しかし、急激な統一政策で、20年あまりで崩壊した。

    建国:前8世紀

    首都:咸陽

    対外(北):万里の長城を修築 (vs 匈奴)

    対外(南):華南の征服

    歴史的意義:中国大陸の史上初めての統一

  • 前202年〜
    漢 (実質的な初代統一王朝)
    中国の歴史 漢 地図
    武帝の時の漢

     劉一族による漢王朝は、前漢・後漢をつうじて400年間、広大な中国大陸の統一状態を維持。

     皇帝を頂点とし、官僚制と儒教を用いた統一王朝という、以後2000年続く、中国の典型的な統治を開始した。

    建国:前202年。劉邦 (高祖)

    首都:長安

    政治:郡国制 (秦の崩壊から学んで緩い統治)

      →郡県制 (呉楚七国の乱の鎮圧で反対勢力を一掃して施行)

  • 前100年後半
    漢の最盛期と衰退

    最盛期:武帝

     思想:董仲舒による儒学の官学化

     対外拡張:匈奴撃退・張騫の西域派遣・南越を滅ぼした・朝鮮北部に楽浪郡設置

     経済:塩・鉄・酒の専売、均輸・平準

    衰退:武帝の死後、外戚や宦官の横暴で混乱。

    滅亡:王莽が「新」を建国するにまで至る

  • 25年〜
    後漢

     新の建国・赤眉の乱で混乱を極めた後、漢王朝は再興された。

    建国:劉秀(光武帝)

    首都:洛陽

    政治:「外戚」「宦官」に加えて、「儒学を学んだ豪族の官僚」が中央政界で対立。

    衰退:上記の政治的な混乱の中、飢饉に対応できず、黄巾の乱が発生

    滅亡:魏の曹操が献帝を廃位し、漢王朝に終止符をうった。

3、魏晋南北朝・隋・唐

 漢の滅亡により、再び長い乱世に突入します。この中で、様々な社会制度が実験的に施行され(※1)、やがて律令制度として結実します。

 こうして、巨大国家「」が生まれ、東アジア文明圏の盟主として君臨します。ここで、中国はいわば絶頂期をむかえるのです。

※1・・・土地制度、税制度、軍事制度など。ここでは触れません。

中国の歴史年表3
  • 220年〜
    三国時代
    中国の歴史 三国志 地図

     再び乱世。みんな大好き三国志の時代。魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備が覇を競いました。

  • 280年〜
    西晋・東晋(異民族の侵入・南部の開発)

     晋が中国を再統一した。

    建国:司馬炎

    首都:洛陽

    衰退:八王の乱(帝位継承権争い)で混乱。

    滅亡:永嘉の乱(北方異民族の侵入)で滅亡。

     

     北部では漢民族と異民族が入り乱れた五胡十六国が成立した。

     一方で、司馬一族は南に逃れ、晋を再興。これは東晋という。

    首都:建康(今の南京)

    経済:北から南へ大規模な人口移動が発生。江南開発が進展した。

    文化:陶潜(詩)、王羲之(書道)、顧愷之(絵画)

  • 439年〜
    南北朝時代

     異民族支配の北部と、漢民族支配の南部に分かれた南北朝時代が百年ほど続いた。

    <北朝>

     北魏が統一し、北朝が開始

    政治:皇帝権が強かった。

    文化:北魏は漢化政策を推進。異民族要素が薄れていった。

    <南朝>

     宋が東晋は滅した。次に、斉・梁・陳と続いた。

    政治:皇帝権が弱く、貴族が強大

    文化:六朝文化:優雅な貴族文化が栄えた。

  • 589年

     聖徳太子が小野妹子に渡航を命じたことで有名な「隋」が中国を再統一する。しかし、厳しい統治で短期で滅亡した。

    建国:589年、楊堅(文帝)

    首都:大興城(いわゆる長安)

    政治:科挙を採用。貴族の抑制を図った。

      :均田制・租庸調制・府兵制を国家基盤とした

    滅亡:二代目煬帝が、高句麗遠征・大運河建設を敢行。民が疲弊し、反乱が発生して滅亡した。

  • 618年
    唐 (東アジア文化圏の中心)

     次の唐は、中国に約300年もの政治的統一をもたらした。

     それどころかユーラシア大陸東部の広大な領域を支配する世界帝国を建設。政治的にも文化的にも国際的な影響力は絶大で、東アジア文化圏を築き上げた。

     日本の京都も、唐の首都・長安を模範にしている。

    建国:李淵(高祖)

    首都:長安 (100万都市として、アッバース朝のバグダードと並び栄えた。ササン朝の亡臣も移住する世界都市)

    中国の再統一:二代目太宗 (有名な名君。貞観の治)

    国内政治:律令体制 (律令格式、州県制、均田制、租庸調・雑徭制、府兵制)

  • 唐代の国際秩序と貿易

    唐国内の異民族政策:羈縻政策

    唐国外への外交政策:朝貢・冊封体制

    内陸貿易:シルクロードを使用。ソグド人が活躍

    海上貿易:海の道を使用。広州に市舶司を設置。ムスリム商人が活躍

  • 唐後半
    唐の最盛期と衰退の開始
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    楊貴妃(wikiより)

    玄宗:(8世紀前半)開元の治と呼ばれる善政を行い、唐の最盛期を現出した

      :しかし、晩年、楊貴妃に心を奪われ、安史の乱を誘発。以降、唐は衰退期に入る。

    衰退の原因:貧富の格差が増大して、農民を基盤とする律令体制が崩壊

         :節度使が内地にも設置され、藩鎮として地方政権化した

  • 唐末期
    唐の滅亡

    滅亡:875〜884年、黄巣の乱が発生。唐は長安周辺を支配する地方政権と化した。907年、朱全忠により哀帝が廃位され、王朝として途絶えた。

4、五代十国・宋

 唐から宋で大きく変わる唐宋変革がおこります。貴族中心の社会から庶民中心の社会へと変わるのです。経済が発展する一方で、宋は軍事的に脆弱でした。こうして、金やモンゴルに敗れますしかし、モンゴルはユーラシア帝国に中国を組み込んだことで世界経済が大いに活発化します。

 漢民族にとっては受難の時代ですが、経済的には繁栄した時代と総括できます。

中国の歴史年表4
  • 907年〜
    五代十国

     唐滅亡の907年から、宋が再統一する979年まで、五代十国が興亡した。

    政治:武断政治 (担い手=藩鎮)

    人口移動:華北が戦乱で荒廃する一方で、比較的平和だった南部へ人口移動が起きた。

    社会変動:戦乱の中で、荘園を失った貴族が没落した。一方で、小作人(佃戸)の農地を貸してお金をとる地主層(形勢戸)が台頭した。

    国際情勢:東アジア各国で政権交代が発生。(トルコ→契丹、新羅→高麗、南詔→大理、大越国独立)

  • 960年
    宋 (経済成長と中央集権)
    中国の歴史 宋 地図

     

     

     次に、中国を再統一したのは宋だった。宋は経済的に大きく発展した時代である。また、政治的には中央集権化が進んだ。

    建国:960年、趙匡胤

    首都:開封 (運河があり物資の大集積地)

    統一:979年(太宗)〜1127年 (北宋の時代)

  • 宋の経済発展  〜人口1億突破の裏側〜
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     宋代、経済発展した。唐に6000万人だった人口が、北宋末期には1億に達した。

    労働力:北から南への人口移動 (南部の方が雨が降るので、農業に適している)

    農業:ベトナムから日照りに強い占城稲を導入

    商業:茶、陶磁器といった商品生産が盛んになり、経済的に発展した

    都市:同業組合(行・作)が結成

    貿易:ジャンク船が南インドまで貿易しに行った。(羅針盤も発明)

  • 宋の政治 〜科挙の完成がもたらしたもの〜
    宋の殿試(wiki)

     宋代、皇帝専制政治文治主義が同時に採用された。

    背景1:五代十国時代の武断政治の反省

    背景2:貴族の没落

    政策:血筋ではなく、テストによって官僚を選抜する科挙の完成(皇帝と面接する殿試の創設)

    政治的意義:皇帝が巨大な官僚組織を運営する中央集権的な国家システムができた。

    社会的意義:地主であり、官僚であり、知識人階級である士大夫がうまれた

    悪影響:軍事的に弱い+財政肥大化 →北方民族に対して弱腰

  • 1127年
    南宋の成立 (靖康の変)

     

    中国の歴史 南宋 地図

     

    事件:靖康の変(1127年)

    内容1:金が開封を陥落させた。

    内容2:上皇(徽宗)・皇帝(欽宗)・数千の女たち(←娼婦にされた)・財宝を北方へ持ち帰った。

    秦檜(右)の像。国賊として唾を吐かれ続けている(wiki)

    結果:南宋の成立 (高宗が臨安を都に宋を再興)

    戦後処理1:和平派(秦檜)が主戦派(岳飛)を抑え、「紹興の和議」を結んだ

    戦後処理1:南宋は金に対して臣下の礼を取ルことになった

    戦後処理2:毎年、銀と絹を送ることになった

    文化:朱子学の発展:華夷の区別・大義名分論を唱えた。異民族から受けた屈辱を反映している。

  • 1271年〜

     13世紀、ユーラシア大陸に勃興したモンゴルが大帝国を築いた。1271年、へ改称し、1279年、南宋を滅ぼし中国も統一する。

    <第一次大交易時代>

     モンゴルの時代に東西交流が活発になったことで、第一次大交易時代が始まる。

    原因:モンゴルがユーラシアに政治的な統一をもたらしたことで、陸の道と海の道が円環的に接続された巨大交易圏が出現したから。

    西から東へ:暦法(ジャラリー暦)、コバルト顔料(青色)

    東から西へ:火薬、中国の絵画技法、黒死病(ペスト、元末期)

    衰退:次の明が農本主義で海禁政策をとったため、衰退した。

    モンゴル族の統一:チンギス=ハン(1206年にハンに就任)

    中国の征服:1279年、5代目フビライ=ハンが南宋を滅ぼす

    国号:元(1271年〜)

    首都:大都(今の北京) (海に繋がる運河が作られ、繁栄を謳歌した)

    統治:中国の官僚制を利用。人材はモンゴル人やウイグル人が優遇された。ただし、実力主義であり、漢民族も出世できないわけではなかったとされる。

  • 14世紀前半
    元の衰退と撤退

    背景:14世紀、世界的な異常気象が発生。モンゴルの中国支配が動揺した。

    原因:紅巾の乱が発生。朱元璋が台頭し、大都を攻め落とした。

    結果:1368年、モンゴルは大都を捨て、北へ逃げた。中国の支配権を放棄した元を、北元という。

5、元

中国の歴史年表5
  • 1271年〜

     13世紀、ユーラシア大陸に勃興したモンゴルが大帝国を築いた。1271年、へ改称し、1279年、南宋を滅ぼし中国も統一する。

    <第一次大交易時代>

     モンゴルの時代に東西交流が活発になったことで、第一次大交易時代が始まる。

    原因:モンゴルがユーラシアに政治的な統一をもたらしたことで、陸の道と海の道が円環的に接続された巨大交易圏が出現したから。

    西から東へ:暦法(ジャラリー暦)、コバルト顔料(青色)

    東から西へ:火薬、中国の絵画技法、黒死病(ペスト、元末期)

    衰退:次の明が農本主義で海禁政策をとったため、衰退した。

    モンゴル族の統一:チンギス=ハン(1206年にハンに就任)

    中国の征服:1279年、5代目フビライ=ハンが南宋を滅ぼす

    国号:元(1271年〜)

    首都:大都(今の北京) (海に繋がる運河が作られ、繁栄を謳歌した)

    統治:中国の官僚制を利用。人材はモンゴル人やウイグル人が優遇された。ただし、実力主義であり、漢民族も出世できないわけではなかったとされる。

  • 14世紀前半
    元の衰退と撤退

    背景:14世紀、世界的な異常気象が発生。モンゴルの中国支配が動揺した。

    原因:紅巾の乱が発生。朱元璋が台頭し、大都を攻め落とした。

    結果:1368年、モンゴルは大都を捨て、北へ逃げた。中国の支配権を放棄した元を、北元という。

6、明

 2000年前、1000年前と比べると、安定した国家体制が築かれました。明と清の時代です。

中国の歴史年表6
  • 1368年〜1644年
    明王朝
    中国の歴史 明 地図

     元に代わったのは、だった。支配者が異民族から漢民族に移ったことを意味している。特徴は、農業を国づくりの根幹におき、儒教の理想に基づいた統治をしようとしたことである。

     国際関係では、皇帝の徳に各国が敬意を示す朝貢・冊封体制の構築を目指した。国家貿易である朝貢貿易を推進するため、民間貿易は制限された。

     しかし、世界的な商業ブームの中で日本と満洲が台頭し、やがて明は滅びることになる。

  • 1368年
    明の建国
    洪武帝

    建国:朱元璋→洪武帝(↑ものすごい不細工だったという)

    出自:貧農 (農民から皇帝になったのは、漢と明の始祖だけ)

    政治方針:農民を大事にする農本主義。富豪や汚職官僚に厳しく当たった。

    農業政策:里甲制で農民をグループ化し、税集めや犯罪者の連行を担わせた。その際、賦役黄冊(租税台帳)・魚鱗図冊(土地台帳)を利用した。

    軍制:衛所制:世襲軍人を作った

  • 1402〜24年
    明の最盛期
    中国の歴史 明 地図

    即位の経緯:靖難の役:建文帝を廃位するクーデータ

    都:北京への遷都

    対外:朝貢・冊封関係の拡大

    (例:足利義満の勘合貿易、朝鮮王朝、琉球、鄭和の大艦隊

  • 15世紀中盤
    明の衰退期

     永楽帝の死後、明は北方民族に対して守勢に回った

    事件:土木の変(オイラトが明の皇帝・正統帝が連れ去られる)

  • 16世紀
    北虜南倭の時代

     世界的な商業ブームの中で、北方のモンゴルと南方の海賊・倭寇が勢力を強め、明は北虜南倭に苦しんだ。

    世界情勢:大航海時代→アメリカ銀・日本銀の生産急増

    中国情勢:朝貢貿易以外の民間貿易を禁止する海禁

    結果:倭寇が密貿易を担って成長した

  • 16世紀
    明の経済発展
    • 銀が流入したことで貨幣経済が浸透し、税の一括銀納を行う一条鞭法が成立した。
    • 農民が副業として、生糸や綿布の生産に取り組んだ
    • 成長1:貨幣経済の中で、全国規模で事業展開する山西商人・徽州商人が成長
    • 成長2:富裕化した官僚は郷紳となり、文化に投資したため、華やかな文化が生まれた。
  • 17世紀
    明の滅亡

     統一された日本を率いる豊臣秀吉が朝鮮出兵(1592〜1598年)を行ない、明は軍事援助した。結果、明は疲弊した。

     さらに、女真族も統一され、北方から圧力を強めていた。1636年には、中国風に「大清」を国号にした。

     1644年に、李自成の乱で明朝は北京を占領され、滅亡した。

7、清

中国の歴史年表7
  • 1616(1636)〜1912年
    17世紀のアジア

     明に代わって統一王朝を建設したのは、漢民族ではなく、女真族(満州族)だった。女真族の中国皇帝は中国文化を重んじる一方で、清朝批判には厳しく対処した。

     清は、(初期だけ台湾平定のために貿易禁止を行なったが、)民間交易が積極的に行った。18世紀には人口が1億数千万人から3億人へと倍増し、経済的な繁栄期に移行した。

     一方、18世紀のヨーロッパでは産業革命が興り、ヨーロッパの帝国主義時代が幕を開ける。ヨーロッパは世界各地に植民地を築き、19世紀には中国にも進出する。この中で、清は滅亡するのである。

  • 1616〜1645年
    清の建国から中国王朝へ

    建国:1616年、ヌルハチ

    支配者民族:女真族(満州族)

    国名:後金→清(1636年に変更)

    中国の王朝へ:李自成の乱で明が滅亡した直後、1644年、北京に入城し、中国の王朝になった

  • 17世紀中盤
    中国平定(鄭氏台湾・三藩の乱)

    鄭氏台湾:海上貿易に支えられた経済力で沿岸部を荒らした。1683年に降伏。

    三藩の乱:1673〜1681年、中国南部で漢人地方政権が反乱を起こした。清は鎮圧した。

  • 清の中ごろ
    3人の賢帝の時代

     中国の平定が終わったあとは、3人の賢帝によって100年ほどの平和な時代が続いた。

    康熙帝(1662〜1722年)

    • 国内平定:鄭氏台湾や三藩の乱の鎮圧
    • 漢民族へのアメ:満漢同数制・康熙字典や古今図書集成の編纂
    • 漢民族へのムチ:辮髪の強制
    • 対外政策:ロシアとの国境確定条約(ネルチンスク条約)
    • 対ヨーロッパ人:積極的に交流。ブーヴェ・レジスの中国地図『皇輿全覧図』が有名

    雍正帝(1722〜1735年)

    • 税制改革:人口が増えすぎて計算が面倒になった人頭税を廃止し、地丁銀制を全国に広めた。

    →家族の人数が増えても税金は変わらなくなったので人口爆発を誘発した。

    • 対ヨーロッパ人:キリスト教の中国布教を禁止

    乾隆帝(1735年〜95年)

    • 最大版図を実現:ジュンガルとウイグルを征服
    • 帝国統治の方法が確立

    東の漢民族統治→科挙官僚による伝統的な統治

    西の異民族統治→理藩院による間接統治(モンゴル、青海、チベット、新疆(ウイグル))

    • 漢民族へのアメ:四庫全書の編纂
    • 漢民族へのムチ:文字の獄
    • 対ヨーロッパ人:ヨーロッパ貿易を広州1港に限定した

    →自由貿易を求めるイギリスがアヘン戦争を起こす背景になる

  • 1800年前後
    社会不安の増大 〜白蓮教徒の乱〜

    背景1:「人口爆発」18世紀を通じて人口は1億6000千万人から3億5000万人に倍増

    背景2:「格差の拡大」人口爆発は国内の移住民をうみ、移住先で経済的に恵まれなかった

    経緯:「白蓮教徒の乱」1796〜1804年、社会に不満の溜まる非エリート層が白蓮教のもとに結集して大反乱

    結果:清財政が窮乏化=衰退の始まり

  • 1800年前後
    外敵の出現 〜イギリスの貿易交渉〜

    背景1:1757年、欧州貿易を広州に限定。制限貿易を行った。

    背景2:イギリスは人気の中国茶の輸入ばかりで、巨額の貿易赤字

    経緯:「イギリスの自由貿易交渉

    結果1:失敗。「朝貢貿易」にこだわる清は拒絶

    結果2:イギリスがアヘンの密貿易を開始。

    影響:中国から大量の銀が流失。農民はデフレで税金支払いができず、清の財政問題が深刻化した

  • 1840〜1860年
    外敵の侵略 〜アヘン戦争・アロー戦争〜
    中国のジャンク船がイギリスの蒸気船に破壊されている

    原因:林則徐のアヘン取締

    経緯:「アヘン戦争」1840〜1842年、イギリス議会が中国への武力行使を決定

    結果:「南京条約」上海などの開港、香港の割譲

    イギリスからの輸出が伸びず、イギリスが不満

    経緯:「アロー戦争」(1856〜1860年)

    結果:「天津条約・北京条約」内陸の港も含む開港

  • 1851〜64年
    社会不安の増大 〜太平天国の乱〜

    背景:「人口増大」「格差拡大」19世紀前半、さらに人口は4億3000万人に増大したが、社会状況は改善しなかった

    原因:科挙に落ちた洪秀全が「太平天国」を建国

    経緯:「太平天国の乱」(1851〜64年) 中国南部で支持者を集め、1853年には南京を首都とした

    結果:鎮圧。漢人の義勇軍が活躍。

    影響:漢人官僚が勢力を伸ばした

  • 1861〜1890年代
    清の改革1 〜洋務運動〜

     「洋務運動」で西洋技術の取り入れを進めた

    スローガン:「中体西用」日本の和魂洋才と同じで、政治は変えずに西洋技術だけ利用するという意味

    限界:有力者によってなされ、財政面で問題があった。

    結果1:運動は失敗

    結果2:「清仏戦争(1884〜1885年)」フランスによって、ベトナムの宗主権を奪った

    結果3:「日清戦争(1894〜1895年)」日本によって、朝鮮の宗主権を失った

    歴史的意義:中国中心の伝統的な国際秩序「朝貢・冊封関係」の崩壊

    歴史的意義:「中国分割の開始」19世紀末、西洋諸国は中国内部の利権を獲得し、半植民地化された。

  • 1898年
    清の改革2 〜変法〜

     日清戦争の敗北の衝撃により、日本の明治維新を参考にした「変法」が始まった

    内容:技術導入だけでなく政治の改革を目指した

    経緯:「戊戌の変法(1898年)」で政治改革を断行した

    結果:運動は失敗。「戊戌の政変(1898年)」保守派が西太后とともにクーデターを起こした

  • 20世紀初頭
    中国の改革3 〜光緒新政〜

    契機:1900〜1901年の義和団事件で西洋諸国に再び敗北

    経緯:「光緒新政」幅広い改革により近代的中央集権国家を目指した

    • 科挙廃止(1905年)」1300年の伝統をここで断ち切った
    • 「留学の推進」学費の安い日本へ多くの留学生がきた (早稲田大が有名)
    • 憲法大綱(1908年)」明治憲法をモデルに皇帝権を強化した憲法草案が起草された

    結果:改革は失敗

    • 中央集権化による地方の反発
    • 留学による反政府勢力の出現
    • 科挙廃止による儒教秩序に基づく清王朝の権威喪失
  • 1911〜1912年
    清の滅亡 〜辛亥革命〜

     1911年、湖北が武漢において独立宣言をすると、24省のうち14省が独立を宣言。孫文を臨時大総統に選出した。

     1912年1月1日、孫文は「中華民国」の建国を宣言。アジア初の共和政国家を樹立した。

     1912年2月、清の宣統帝が退位し、清王朝は滅亡した。

    歴史的意義:2000年以上続いた皇帝制度の終焉。

8、中華民国

中国の歴史年表8
  • 1912〜(1949年)
    中華民国

     1912年に孫文は南京中華民国の建国が宣言された。

     しかし、すぐに袁世凱に主導権を奪われ、中華民国北京政府が樹立された。さらに、袁世凱は帝政の復活を目指す。これは失敗に終わる。

     混乱で地方軍事勢力(軍閥)が乱立。この中で、日本が中国への影響力を強める。

     最終的に、孫文の後継者である蒋介石の中国国民党陳独秀が創始し毛沢東率いる中国共産党が、イデオロギー対立を保留し、「抗日」の名のもとに共闘。日本を追い出すのである。

     日本の敗戦後は、イデオロギー対立のもと中国内戦が勃発する。

  • 1912年1月
    中華民国の建国宣言

     孫文が南京にて中華民国の建国を宣言した。

  • 1912年2月
    清の滅亡

     清の宣統帝が退位。清王朝が滅亡した。

     こうして、中華民国は中国の統一政権となった。

  • 1912年3月〜1916年
    袁世凱の独裁

     清の有力者である袁世凱が、革命の主導権を握り、臨時大総統に就任。帝政運動を展開する。

    意義:辛亥革命は孫文の手から離れた。

    運動:1915年の帝政運動では「中華帝国」へ国号を改めた。

    結果:列強や日本の賛同が得られなかった上、南部で反乱が発生し、帝政は取りやめとなった。失意の中で1916年に病死した。

    意義:袁世凱のもと統制の取れていた地方軍事勢力が自立化。軍閥となった。

  • 1914〜1918年
    第一次世界大戦

    <袁世凱の頃>

    対外政策:袁世凱は日本の「21カ条の要求」を受け入れた。

    文化:中国社会の変革を訴える新文化運動がおこった。この中心には北京大学があった。

    経済:大戦中に軽工業が勃興。中国近代工業が始まった。

    <袁世凱の死後>

    民族運動:1919年に「五・四運動」とよばれる抗日大衆運動が発生。

    国際情勢:日本が軍縮を基本とするワシントン体制に組み込まれて10年ほどの平和が訪れた。

  • 1920年代
    中国国民党の動向

    <孫文の頃>

     広東の孫文は大衆政党である中国国民党に改組。1923年には、広東政府を樹立した。

     また、ソ連との関係を強化した。この流れで、第一次国共合作(1924〜27年)が成った。

    <蒋介石へ>

     1925年に大規模なストライキである五・三〇運動が広まると、中国国民党は中国共産党を排除して、北伐を開始した。

     そして、1927年に南京国民政府を樹立した。

     1928年には北京に入場。張学良の東北地方が国民政府に統合されると、中国統一が実現した。

  • 1920年代
    中国共産党の動向

     第一次国共合作の崩壊のあと、毛沢東が勢力を拡大。

     1931年9月、瑞金で中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立した。

  • 1931〜1933年
    満州事変

     不況におちいっていた日本で、軍の影響力が増大した。日本軍は「満蒙は日本の生命線」と宣伝し、総力戦体制のために中国東北地方を制圧した。

     このとき、1932年、傀儡政権として満洲国が建国された。満洲国では、清最後の皇帝である宣統帝が即位した。

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    すみません。現在大工事中につきここまでしかありません。

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8、中華民国・中華人民共和国 

 ラストエンペラーが退位してから、中国は前221年から続く皇帝の国(=帝国)という統治形態をやめました。分裂状態の中で中国を侵食したのは日本でした。

 そして、日本が敗れた後、国民党と共産党で内戦が起こり、中国の歴史の神は共産党を選んだのです。

中国の歴史年表6
  • 20世紀前半
    日本との戦い

    20世紀前半は攻勢をかける日本と対峙する一方で、孫文は指導力を失い、中国は分裂状態になりました。

  • 1945年
    第二次世界大戦での勝利

     日本は中華民国・アメリカ・ソ連といった連合国に敗北。中国は日本に勝利しました。

  • 1947年
    中華人民共和国の建国

     共産主義側の毛沢東は、資本主義側の孫文に勝利し、共産党一党独裁の中華人民共和国を建国しました。

  • 現在
    今の中国
    上海
    香港

     世界第2位の経済大国となり、経済的にも軍事的にも科学研究の分野においても、非常に強い国へと成長を遂げました。

     日本との永い友好関係を願います。

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