中国の歴史まとめ/ 大陸の帝国4000年史【受験世界史の地図】

東洋史

 東大生が書いた『受験世界史の地図』中国編でございます。

 初学者と、通史を学んだ人、世界史やりたい理系におすすめです。

0. 中国史のまとめ

中国の地形

 まずは、中国大陸についてです。

 東には農業地帯が、西には砂漠と山々があります。

 この農業地帯に住む民族が、世界最大の民族・漢民族です。

 漢民族は古来から高度な文明を築きました。東アジアには向かうところ敵なしで、みずからを「中華(意味:世界の中心)」と表現しました。

 実際に中国王朝の都は多くの時代、世界最大の都市でした。

 しかし、農耕民族の漢民族には敵がいます。砂漠にちょこちょこ引かれた草原の道を馬に乗って駆け巡る騎馬民族です。

 しばしば、中国はこやつらに皇帝の座を奪われました。

<参考資料>

漢民族支配異民族侵入or異民族支配
統一2. 秦
3. 漢
10. 宋
12. 明
15. 中華人民共和国
7. 隋(鮮卑)
8. (鮮卑)
11. (モンゴル)
13. (女真)
分裂
1. 戦国時代
4. 三国時代
5. 五胡十六国時代
6. 南北朝時代
9. 五代十国時代
14. 屈辱の100年(欧米日)

 けれども、中華文明の権威は東アジア全域に及び、中国大陸を中心とする国際秩序は何千年も続きました。これを「冊封・朝貢体制さくほう・ちょうこう」といいます。

 この国際秩序が破れるのは、「対等な主権国家」という概念をヨーロッパ人が持ち込んだ200年ほど前にすぎないです。

 この200年は、産業革命に成功したヨーロッパが中国を半植民地化し、急速に勃興した大日本帝国が侵略(進出)した時代でした。

 漢民族視点だと、近代は海からの異民族の侵入があった時代といえます。

 けれども、屈辱の時代を抜け、中国も近代化を遂げた結果、世界第2位の経済大国と躍進を遂げます。これが現在の中国です。

 それでは、もっと詳しく中国史を見ていきましょう!

日中交流は緑の枠内で触れます。

1. 中国神話

世界の創造

 まずは中国神話から。

 世界は最初、混沌でした。やがて天地が生まれましたが、天地の間はとても狭かったのです。

『三才図会』1604年より、盤古

 天地の間に盤古がいました。盤古はにょきにょき成長していき、1万8000年かけて、天地を完全に分けました。これを天地開闢てんちかいびゃくいいます。

 中国神話の世界だと、こうして世界が生まれます。

馬麟『禹』13世紀

 盤古の死後、神話上の世界がしばらく続きます。この時代の王を三皇五帝といいます。

 さて、最後の三皇五帝であるが、夏王朝を開きました。中国では夏王朝が最初の実在した王朝とされます。

 さてさて、夏王朝の桀が、美女・末喜に夢中になり国が傾きました。結果、殷の湯王が立ち上がり、殷王朝へと交代しました。

 「王が美女に溺れて、国が滅びる」は、古代中国史あるある展開です。このような美女のことを「傾国の美女」といいます。

 

 さて脱線しましたが、考古学的な証拠があるため、殷王朝の実在は世界的に認められています。日本の世界史教科書でもこちらが「実在した最初の中国王朝」とされています。

 紀元前17世紀から前1046年にかけて、存在しました。

 ちなみに、前17世紀にはエジプト中王国や古バビロニア王国が存在してます。

2. 古代王朝と戦国時代

 さて、時は下り前11世紀、殷にも傾国の美女が現れました。美女・妲己の虜になったのは、紂王。酒池肉林で知られる暴王です。

 そこで周の武王は西より殷を滅ぼし、都を鎬京におく周王朝を築きます。

 しかし、数百年後、また傾国の美女があらわれます。

 周の幽王は、笑わない美女・褒姒を喜ばせようと、不必要な軍隊召集を乱発。慌ててやってくる軍人をみてキャッキャ笑う褒姒の一方で、幽王は軍隊の信用を失いました。

 本当に異民族が攻め込まれたとき、軍隊召集に従う軍はなく、首都・鎬京は蹂躙されました。

 イソップ童話のオオカミ少年みたいですね。

中国の歴史 周の地図 

 結果、前770年、鎬京を捨て、東の洛邑に遷都しました。洛邑が首都の周を東周といいます。

 こうして、周王朝の力は減退。各国が乱立する春秋時代へと突入するのです。

 ちなみに、この遷都(前770年)の17年後、イタリア半島でローマが建国されたとされています。

春秋・戦国時代

 春秋時代は、まだ周王の権威が認められていました。春秋時代のキーワードは、尊王攘夷。江戸時代末期に唱えられた「尊皇攘夷」の由来です。

 意味は「王(周王)をとうと有び、(野蛮人)をはらうう」です。

中国の歴史 戦国時代 地図

 時はたち前403年、大国・晋が韓・魏・趙に分裂。これ以降を戦国時代と言います。

 主君を殺しても成り上がる下剋上が一般的になります。

 江戸時代に入る直前、日本にも下剋上の時代・戦国時代がありましたね。

諸子百家

 ただ、春秋戦国時代には優れた思想家たちが、活躍しました。

 この人たちを諸子百家といいます。

 ビジネス界隈で人気の孫子も、道教の源流をつくった老子もこの時代の人です。

孔子を祀る孔子廟「湯島聖堂」徳川綱吉が建てた

 そして、その中のトップが儒家の孔子です。

 孔子の特徴は、「怪力乱心を語らず」。怪とは不思議、力とは暴力、乱とは不合理、神とは恐ろしい強者。つまりは合理的な思想です。

 漢王朝以後、中国の思想はこの儒教が主になっていきます。

 ちなみに、世界最古の王家は天皇家ですが、世界最古の家族は孔子の家族です。孔子の紀元前500年から続く家系図・孔子世家譜は、世界最古です。

秦 〜始皇帝〜

始皇帝となる嬴政

 戦国時代をこえて、中国を統一したのは「」です。そう、漫画『キングダム』の中の人です。

 中国を統一した政は、始皇帝を名乗ります。前221年のことです。

中国の歴史 秦 地図

 政は中央に強大な権力を集めて、改革を断行。その中には、人類史上最大の建築物である万里の長城の建設も含まれています。

万里の長城

 しかし、秦の急速な中央集権政策についていけず、歪みが生まれていました。その中で、陳勝が農民反乱を起こし、最終的に秦は滅亡します。15年の短命な王朝でした。

 ちなみに、農民反乱からの滅亡は、中国史の典型パターンになります。

 あと、陳勝ってのは口が回る男で、「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」のエピソードが個人的には好きです。

 あるとき「偉くなっても、お前らのこと忘れないぜ」と言った農民の陳勝は、馬鹿にされたのです。そこで、陳勝は「小鳥には大きな鳥の志がわからないんだなあ」と返したのです。

 自分の力を信じて人生を切り開こうとする心意気には学ぶものがあります。受験も同じかと…

4. 「漢」の誕生

前漢 〜漢字の「漢」〜

劉邦(wikiより)

 前202年、農民の劉邦(皇帝としては高祖)はライバル項羽を破り、王朝を創始しました。

 これが漢王朝です。漢字の漢、漢民族の漢です。400年にも及び中国大陸を支配し、漢民族の土台を築いた王朝です。

 ちなみに、劉邦は農民出身ですが、めちゃめちゃ人から好かれる人でした。飲み屋に行けば席はすぐに満席になったといいます。

 秦の失敗を踏まえ、地方分権的な緩い統治をしました。

最盛期:武帝

中国の歴史 漢 地図

 前156年武帝(劉徹)が誕生します。武帝は漢帝国の最盛期を作り上げました。

 一番わかりやすいのが匈奴をぶっ叩いて、領土を拡大したことです。上の地図でも、ニョキッと西に領土が延びてるのがわかると思います。

 ニョキッとなってるのは、天山山脈とチベット高原に挟まれた砂漠地帯を支配下においてるって意味です。

 緑の線は草原地帯を意味していまして、イランのパルティア(安息)やヨーロッパのローマにつながる「シルクロード」とも呼ばれました。

衰退

 ただし、武帝以後は、皇帝の血縁者皇帝の世話係の宦官かんがんが対立し、政治が乱れます。宦官との政争は、あるある中国王朝の衰退パターンです。

 ちなみに、宦官とはなんでしょう。宦官とは、男根を切り取って皇帝に仕える人です。男目線で嫌すぎる…男根切り取るのは、皇帝の妻を寝取らないようにするためです。

 こうして、前漢は衰退します。

 漢王朝が廃され王朝が一瞬できたり、農民反乱が発生したり、混乱は極致に達します。人口崩壊も発生しました。

 一説によれば6000万人に達していた人口は半減しました。さすがに嘘くさいですが、紹介しておきます。

ちなみに、この頃、日本には100あまりの国があったそうです。(出典:『漢書』地理志

後漢

 新王朝の混乱をみて、劉秀が立ち上がります。貧乏貴族だったので牛に乗って出陣しました。そして、紀元後25年、漢を再興します。

 滅びた前王朝を再興するのは中国史上唯一です。この新しい漢王朝を、後漢ごかんと呼びます。

 しかし、後漢では宦官かんがんが大きな権力を握り、真面目な清流官僚と対立ます。それが決定的になったのは、清流官僚を排除した党錮の禁とうこ

 はい、これで新しい漢王朝も、王朝衰退の典型パターンに乗っていきます。

 国政は乱れ、農民は困窮。新興宗教が農民に蔓延した結果、184年黄巾の乱が発生します。王朝滅亡の典型パターンである農民反乱です。

 220年、後漢は滅びました。

この頃、日本の奴国が洛陽に出向いて朝貢し、金印をもらったと伝えられています。(『後漢書』東夷伝)

 

4. 三国志と乱世

三国時代

中国の歴史 三国志 地図

 さて、時は後漢末期、3人の英雄が出現します。魏の曹操・蜀の劉備・呉の孫権です。そう、三国志の時代!

 ちなみに、「劉備をヒーロー、曹操を悪役」にみる三国志の物語は、元の時代に書かれた『三国志演義』という歴史小説です。史書の『三国志』は曹操の魏を正統とみなしてます。

 天下が再び統一したのは、280年西晋だ。魏を乗っ取った司馬炎が建国した。

日本には卑弥呼という女がいたと、『魏志』倭人伝に伝えられています。

魏晋南北朝時代

 しかし、異民族群・五胡ごこ(匈奴や鮮卑など)の侵入により、再び中国は十数の国に分裂。300年近く分裂の時代を迎える。

 春秋戦国時代は諸子百家が様々な思想を展開したと言いました、魏晋南北朝時代は合理的な思想よりも、宗教が栄えました。仏教道教ですね。

 何にせよ、しばらくの間、中国の統一王朝はいません。

5. 隋唐 〜世界帝国〜

 そして、589年、異民族・鮮卑系の王朝ずいが天下を統一します。

 「小野妹子の遣隋使」の隋です。けれども、すぐに「遣唐使」になりますよね?

 そう、高句麗遠征に失敗した隋は、618年に早くもこの世から消え去りました。

 聖徳太子は隋の皇帝から反感を買いました。皇帝を「日の没する処の天子」したからです。しかし、お返事はありました。

 なぜでしょう?

 日本と友好関係を結べば、挟み込まれた高句麗に圧力をかけることができるからです。日本史の裏にあるアジア国際事情は、面白いでしょう?

 618年が建国されます。「天の下、王の土地ならざるはなし。」と言われる300年続く大帝国の誕生です。

李世民(wikiより)

 唐建国の立役者は、二代目の李世民です。李世民は太宗とも呼ばれます。

 太宗は名君として名高いです。太宗の『貞観政要』は、中国皇帝・徳川家康・明治天皇が帝王学のテキストにしました。

 太宗の善政を貞観じょうがんの治と呼ばれる善政を行います。太宗が整備した律令体制は、日本の大化の改新(646年)に影響を与えました。

国際色豊かな世界帝国

 首都・長安は、100万都市となり、イスラーム世界の都バグダードと並び、世界最大の都市になります。

 唐の長安は国際色豊かな街です。それは中国が世界帝国へと成長したからです。

 「中国を上位に相手国を下位におく外交関係」朝貢・冊封関係を多くの国と結びました。

中国の歴史 唐 地図

 上の地図の国は、中国の朝貢・冊封体制に組み込まれた国々です。

 特に、西への領土拡大は目を見張るものがあります。751年には、タラス河畔の戦いでイラクのアッバース朝と一戦交えています。

 市舶司がおかれた広州で海上貿易の拠点として、反映しました。ちなみに、広州は上海・北京につぐ中国第三の都市になってます。

 広州に市舶司がおかれ、海上貿易の拠点となります。ちなみに、広州は現在、中国第三の都市でですね。現在の風景をご覧ください。

現在の広州

開元の治と、傾国の美女再び

 712年、名君・玄宗が即位します。開元の治の始まりです。開元の治で唐は絶頂期を迎えます。

 けれども、やって参りました典型パターン・傾国の美女の登場です。有名な楊貴妃です。

 玄宗は楊貴妃と出会ってから、政務に身が入りません。さらに、楊一族と軍人の対立は、内乱にまで発展します。

 こうして、反乱軍によって長安は陥落します。

 荒廃した長安を、詩人・杜甫とほはこう歌いました。

国破くにやぶれて山河在さんがあ

・・・

杜甫『春望』

 有名な詩ですね。

衰退

 さてさて、こうして唐の中央集権体制は崩壊します。反乱で農民が没落し、地方貴族の台頭を招いたからです。

 貴族は皇帝の独裁をはばむ存在です。ちなみに、その貴族は9世紀後半10年にわたる農民反乱(黄巣の乱)で、反乱軍に攻撃され貴族は消滅します。

 その中で、907年、唐は滅亡します。

五代十国

 唐滅亡後、50年程度、中国は再び分裂の時代を送ります。これを五代十国といいます。

6. 宋 〜軍事的に弱い経済大国〜

中国の歴史 宋 地図

 960年、後周の武人・趙匡胤ちょうきょういんそうを建国する。そして、979年、中国を統一する。

文治主義

 文治主義ぶんちしゅぎが政治方針。武ではなく、文の力で統治すると言う意味だ。

 貴族はもういないので、科挙が高級官僚になる唯一の道。受験戦争が勃発する。

 日本で受験戦争はすっかり悪者になってしまったが、高度な社会には高度な勉強が必要だ。宋の宰相の范仲淹はんちゅうえんは名言を残した。

 「天下の憂いに先んじて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ」

 人生の前半は天下国家のために尽くし、後半にやっと豊かな余生を送るべしという考えだ。

 岡山の後楽園はここから取られている。

軍事的に脆弱

 文治政治で軍人の力を削いだため、軍事的に脆弱だった。

 北方民族とは、お金を払って侵略を辞めてもらう屈辱的な関係を結んだ。

経済発展

清明上河図

 宋は中国南部を中心に経済発展を遂げた時期である。人口は1億人を突破した。首都開封かいほうは不夜城であった。世界最大の都市の座をバグダードと争った。

 宋の文化は民衆が中心となって作られた。も流行。木版印刷・羅針盤・武器用火薬の三大発明も生み出された。

開封

 ちなみに、現在の開封は宋代の都市ではない。宋代の開放は、洪水に呑まれ地中に埋まっている。今は清明上河園という歴史テーマパークで当時の風情を感じることができる。

南宋

中国の歴史 南宋 地図

 1127年には北方民族・が首都開封を占領。首都を臨安(現:杭州)に移した南宋が創始された。臨安は当時世界最大の都市だった。

杭州(旧・臨安)

世界遺産・杭州西湖

宋と交易したので有名なのは、平清盛。

7. 元 〜ユーラシア帝国〜

モンゴル

 北方の弱小遊牧民族に過ぎなかったモンゴルは、チンギス=ハンの下、強国への発展していく。

 その後、モンゴル勢力はポーランドに遠征し、ヨーロッパ諸侯をフルボッコ。イスラームの最高権威であるアッバース朝(in バグダード)を滅ぼした

 こうして、ユーラシア大陸を支配する空前絶後の大帝国が誕生した。13世紀はモンゴルの世紀といえる。

 フビライ=ハンは、1276年、南宋を滅ぼした。国号を中国風にとし、首都を大都(今の北京)においた。

 狙いは、農民を支配しておけば、取れる不労所得「税」。

 しかし、トラブル続きの中国統治が面倒になった元は、1368年、中国を放棄。故郷のモンゴルに去っていった。

 農耕民族の支配者をやめて遊牧民族に戻っていったモンゴルを、北元(後の「タタール」)という。

 元は日本遠征もした。第一回目は南宋攻略のため包囲網の構築、第二回目は南宋の兵士の口減らしを目的としていた。日本には元寇として伝わっている。

8. 明 〜復活の漢民族王朝〜

中国の歴史 明 地図

 1368年が誕生した。中国南部から生まれた唯一の統一王朝だ。首都は南京。南京は世界最大の都市になる。

 明の創始者洪武帝(朱元璋)は、貧しい農民出身で顔は醜かったと伝えられている。

洪武帝

漢民族の復活

 モンゴルの支配を受けていた反動で、漢民族のナショナリズムが高まっていた。

 そのため、復古主義的文化であった。遊牧民族モンゴルとは真逆で、農業を重視する政策をとった。

最盛期

紫禁城

 1399年、クーデターが起きた。帝位を簒奪した永楽帝は、気まずい南京を離れて北京に遷都した。紫禁城を建設。

 遷都の結果、北京は世界最大の都市になる。

 永楽帝はヨーロッパの大航海時代にさかのぼること100年、鄭和ていわの大艦隊を編成。アフリカ東岸まで派遣し、中国の貿易体制に組み込んだ。

 ちなみに、鄭和はムスリムで宦官というユニークな人物。

 また、儒学者に媚びて、2万巻1万冊に及ぶ百科事典・永楽大典えいらくたいてんの編纂を命じた。400年後、北京に進軍するイギリス・フランス軍がぬかるんだ道に敷き詰めたと言われる。

北虜南倭

 永楽帝以後、皇帝はパッとしない。さらに、北方民族と南の海賊に苦しめられる。これを北虜南倭という。

 また、1592~97年壬辰・丁酉の倭乱豊臣秀吉の朝鮮出兵)が発生。朝鮮の救援のために、さらに衰退。

 最終的に、1644年、明は滅ぼされた。

明末清初は、中国に大量の銀が流れ込み、商工業が発達した。ちなみに、この銀の出所はヨーロッパ商人がもたらした中南米の銀と、日本の銀だ。石見銀山がフル稼働していた。

9. 清 〜最後の王朝〜

 1644年、満州族のが北京を占領。新しい異民族王朝が誕生した。

 少数民族の満州族は、アメとムチでマジョリティの漢民族を支配した。例えば、高級官僚に満州族と漢民族を同数採用する一方、満州族中心の軍隊と思想統制で漢民族を抑えた

 また、漢民族の反乱には漢民族を用いた。「漢をもって漢を制する」と表現される間接統治だ。

領土拡大

中国の歴史 清 地図

 清は領土を拡大。最大版図は乾隆帝のとき↑である。ちなみに、乾隆帝は3万6千冊の計10億字の四庫全書しこぜんしょの編纂を命じた。

 面白いのが、1689年に国境確定条約を結んでることだ。その国とはロシア。ついに、中国の北部が、北方民族ではなくヨーロッパ出身のロシアの領土になるのである。

鎖国体制をとる徳川幕府だったが、清とは貿易を続けた。

10. 屈辱の100年 〜衰退期〜

ヨーロッパ文明の拡大

 18世紀、ユーラシアの西のはずれイギリスでは、産業革命が起こった。100年の間に、イギリスは世界を植民地化した。

 ここから、中国は衰退期を迎える。中国は、1820年の時点で、イギリスの6倍のGDPを持つ世界一の経済大国であった(※)が、以後は欧米列強と日本に半植民地とされるのである。

 1840~1949年を中国目線で「屈辱の100年」という。

※アンガス=マディソン『経済統計で見る世界経済2000年史』

伝統的な国際秩序の崩壊

中国のジャンク船がイギリスの蒸気船に破壊されている

 イギリスは対中貿易で巨額の貿易赤字を抱えていた。そこで、麻薬アヘンを密売し、貿易赤字を解消しようとした。中国がアヘンを没収すると、イギリスがアヘン戦争を開始。

 その結果、中国は敗北。欧米各国と不平等条約を結んだ。

 中国が上位国として君臨する伝統的な国際秩序(朝貢・冊封関係)の崩壊を意味し、歴史的な出来事だった。

香港

 大英帝国に香港が割譲されたのは、アヘン戦争後である。1997年、中国に返還。中華人民共和国に属するが、一定の自治を認める一国二制度が採用されている。巨大金融センター。対中投資の7割が香港を仲介する。なお、攻殻機動隊の街は香港が参考になっている。

香港

隣国の強国化

 アヘン戦争で伝統的な国際秩序の崩壊を目の当たりにした極東の国があった。日本である。

 1867年、260年続いた軍人政権・徳川幕府は世界最古の王家天皇家に政権を奉還した。1868年、明治新政府が樹立。明治維新が成った。

 亡国の危機感から急速に進んだ近代国家は、次第にアジア人という自意識を捨て、西欧への仲間入りを目指すようになる。

清の滅亡と日本の侵入

ビゴー(1887年)の風刺画、朝鮮釣りする日本&清、ロシアも狙っている

 1894年日清戦争が勃発する。663年白村江の戦い、16世紀末の豊臣秀吉に次ぐ、3度目の朝鮮半島が舞台の日中の戦いだった。清は敗北した。

辛亥革命時の中国

 1912年孫文辛亥革命が勃発。最後の中国王朝・清朝は滅亡した。

 しかし、巨大な王朝が滅びると、分裂の時代を迎えるのが中国の歴史法則。孫文は「革命いまだならず」といって死んだ。

 弱体化した中国に日本が進出する。日中戦争では南京市と武漢市から工業が疎開した重慶が抗日の拠点となる。

 解放は、1945年の日本敗戦まで待たなくてはいけない。

重慶

 重慶は内陸の拠点として戦後発展を遂げ、「工業は重慶に学べ」とのスローガンまで生まれた。

現在の重慶

11. 中華の復活

中華人民共和国の建国

中国の歴史 中華人民共和国 地図

 第二次世界大戦後には2つのイデオロギーが存在していた。

  • 自由を追求し、弱肉強食の社会を建設する自由主義
  • 平等を追求し、強力な管理社会を建設する社会主義

である。蒋介石の国民党は自由主義、毛沢東の共産党は社会主義だった。

 1949年毛沢東が北京にて中華人民共和国の建国を宣言した。

台湾・中華民国との対立

 一方で、国民党は台湾に逃れ、中華民国政権を維持した。台北の故宮博物館には、中国本土から持ち込まれた文物が大量に保管されている。

 1972年に、米国のニクソン大統領が中華人民共和国を唯一の中国政権としたので、日本・田中角榮も国交を断絶

 一方で、1970年以降、急速に工業化を遂げ、アジアNIESニーズと呼ばれる。そして、今に至る。

台湾の首都・台北

経済発展

 1980年代、鄧小平の改革開放。社会主義経済を一部改めて、資本主義経済を取り入れたのだ。

 2001年、ゴールドマンサックス社が「Building Better Global Economic BRICsブリックス」を発表。新興国ブラジル・ロシア・インド・チャイナの4カ国が世界経済を支えると予測した。

 2010年、中国は世界第2位の経済大国になった。それまで世界第2位だった国とは、日本だ。

 42年もの「一位アメリカ、二位日本」は崩れた。ちなみに、世界最大の都市は、現在、東京だ。

上海

 1992年以降、浦東新区に外資が流入し上海が大発展。中国一の経済都市となる。

上海

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