わかりやすい中国史のまとめ / 世界史年表

 古代から現代にかけて中国の歴史をわかりやすくまとめる。マニアックで面白い小話もちゃんと拾いつつ、中国史の大きな流れがざっくりわかるように書いた。

執筆者=センター試験(共通テストの前身)の世界史Bにて2年連続満点。一浪で東大合格。

 『書経』によれば夏から中国王朝史が始まる。中国では夏王朝の創始は紀元前2070年とされ、中国史4000年の根拠となる(※1)。

※1:伝説によると、夏王朝の前には三皇五帝の時代がある。三皇は、頭文字を合わせると天地人になる天皇、地皇、人皇の三皇である。天皇(てんこう)は、日本の天皇(てんのう)と同じ文字である。

 商(=殷、紀元前17世紀頃 – 紀元前1046年、都=商(現在の河南省安陽市))が、日本で実在が認められている最初の王朝である。都の遺跡(殷墟)が実在する。商の君主は「」を名乗った(※1)。東西南北の外国人を東夷西戎北狄南蛮と蔑称した(※2)。最後の王・紂王が美女を寵愛し、酒池肉林(※3)に堕したため、人心を失い滅ぼされた。

※1:商や周の君主は「王」を名乗った。都市国家群の盟主という意味である。しかし、戦国時代になると、周王の権威が落ちて、地方政権の君主が「王」を名乗るようになる。「王」を超える存在が「皇帝」である。

※2:東に位置する日本人は、東夷である(使用例:後漢書東夷伝)。大航海時代以降に南から航路でやってきたヨーロッパ人は、南蛮と呼ばれることになる(使用例:南蛮貿易)。

※3:酒池肉林の肉に「肉欲」の意味はない。「酒をもって池と為し、肉を縣けて林と為し(史記)」が語源であるので、酒と肉が豊富な宴会の意味である。

 周(紀元前1046年頃 – 紀元前256年、都=鎬京(西安近郊)→洛邑(洛陽))は殷の次の王朝である。武力で建てた王朝のため、有徳の者が現王を追放する放伐(≒簒奪、対義語は禅譲)が正当化された。周王は、諸侯に国を与え、世襲される封建制を採用した。王位継承問題、異民族の侵入により周王朝は徐々に弱体化し、諸侯の自立化が進んだ。前770年、異民族の攻撃により周は鎬京を捨て、現在の洛陽、当時の洛邑へ遷都してからは、500年に及ぶ春秋・戦国時代へと突入する。なお、前800年代に周王が不在となった共和という期間が、世襲の国家元首がいない政治制度である共和制の語源である(※1)。

※1:共和は、江戸時代の日本人・箕作省吾が「republic」の訳語として初めて用いた(出典:Wiki)。republicは、ラテン語のres publicaが語源である。res publicaは、特定の個人や階級のためにではなく、全構成員の共通の利益のために存在するものとされる政治体制を指した。現在は、共和制は世襲の国家元首がいない政治制度を意味する。共和制として有名な国は、古代ギリシア(ヨーロッパ文化の源流)、共和制ローマ(古代ヨーロッパの栄光)、アメリカ合衆国(世界最強の国)、フランス共和国(フランス革命で有名)、中華民国(辛亥革命で有名)、中華人民共和国(現在の中国)である。

春秋戦国時代

 春秋戦国時代(紀元前770年 – 紀元前221年)、諸国が覇を競い、熾烈な国家間競争が起こった。社会的には鉄製農具の普及により生産力が増大し、文化的には諸子百家を生んだ。特に孔子の教えは、儒教として中国思想に大きな影響を与えることになる。また、孫氏の兵法は日本で人気である(※1)。春秋時代は尊王攘夷が唱えられ(※2)、周王の権威が残存していた(※3)が、戦国時代は諸侯が「」を称し下剋上の世となった(※4)。周は紀元前256年に秦に滅ぼされる。

※1:孫氏の兵法では「凡そ戦いは正を以て合し奇を以て勝つ」が個人的に好きである。「正攻法をもって対峙し、奇策でもって勝つ」の意味である。

※2:江戸時代末期の尊王攘夷は、中国・春秋時代の尊王攘夷が由来。

※3:春秋の五覇は、斉の桓公、晋の文公、秦の穆公、宋の襄公、楚の荘王である。周のある黄河流域の諸侯は「公」を名乗っているが、南の長江流域の諸侯であるは「王」を名乗っている。

※4:戦国の七雄は、秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓であり、黄河流域の諸侯であっても「王」を名乗った。後にが他の6カ国を滅ぼして、天下統一を成し遂げ、秦の君主・政が始皇帝となる。

 秦(紀元前905年建国、紀元前221年中国統一、紀元前206年滅亡、都=咸陽(西安近郊))が、前221年、中華を統一した。Chinaは秦(Qin)を語源とする。政は、君主の称号を「皇帝」と改め、始皇帝と号した(※1)。朕、詔、勅、陛下は始皇帝時代の宮廷用語である。領主が世襲して統治する地方分権的な封建制から、中央政権が任命・派遣する官僚が治める中央集権的な郡県制へと転換した(※2)。また、極度の法治主義に反対した儒者を焚書坑儒で弾圧する思想弾圧が実施された。建築事業としては万里の長城が有名である。急激な改革は農民反乱を呼び、統一後わずか15年で、帝都・咸陽(現在の西安近郊)は劉邦に率いられた反乱軍によって陥落した。秦滅亡後、項羽劉邦が争った(※3)。

※1:皇帝は三皇五帝から作られた造語である。

※2:秦の封建制から郡県制への転換は、日本の廃藩置県と似ている。日本における廃藩置県(1871年)の後、都道府県知事に勅任官の内務省官僚が派遣された。なお、地方政治に絶大な影響力を持った内務省は「官庁の中の官庁」「官僚勢力の総本山」と呼ばれ、戦前最強の官庁だった。しかし、日本が第二次世界大戦で敗戦した後、1947年に内務省はGHQによって解体された。ちなみに、今現在最強の官庁は、財務省と言われる。

※3:左遷とは、項羽が首都攻略の軍功を上げた劉邦を警戒して、西の辺境を劉邦に与えたことに由来する。

 漢(紀元前206年 – 紀元後220年、前漢の都=長安(西安)、後漢の都=洛陽)の劉邦が前202年に中国を再統一し、400年に渡る統一国家を建設した。以後、中国の主要民族は漢民族、その文字は漢字と呼称された。漢王朝の初代皇帝・劉邦(在位:前202年 – 前195年)は、首都・長安(現在の西安)を直轄地、他を劉一族、功臣に与える郡国制を採用した。代を下るごとに劉一族、功臣の血縁者の力は削がれ、第7代皇帝・武帝(在位:前141年- 前87年)で郡県制となり中央集権化が完成した。武帝の頃、社会的には貧民を集めて大土地経営を行う豪族が台頭した。この豪族が貴族の源流である(※1)。

 宮廷内の権力闘争の激化で、後8年、一度、漢は滅んだ。後25年、漢王朝は劉秀によって再興される。劉邦の漢を前漢、劉秀の漢を後漢と呼ぶ。劉秀は、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した中国史上唯一の皇帝である。首都は長安から洛陽に遷された(※2)。劉秀は光武帝とも呼ばれ、漢委奴国王印を日本に送った。184年の黄巾の乱で漢王朝は実質的な支配力を失い、220年、漢王朝は滅んだ。

※1:漢の豪族は、郷挙里選によって中央政界に進出した。郷挙里選とは、地方の優秀な人材を地方長官が推薦して中央の官僚とする制度で、武帝が創設した官吏任用制度。しかし、郷挙里選では豪族の子弟が「地方の優秀な人材」として推挙されるようになり、貴族化していった。

※2:洛陽は長安の東にあったので東京(とうけい)と呼ばれた。中国における東京(とうけい)と、日本の東京(とうきょう)は発音で区別する。

魏晋南北朝時代

 魏晋南北朝時代(184年-589年)は、漢王朝滅亡後の300年に渡る分裂期である。『三国志』は黄巾の乱の後、魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権が争った三国時代を描いている。邪馬台国の卑弥呼に親魏倭王印を送ったのは、このときの魏である。魏晋南北朝時代、漢民族の長江流域への移住が進み、江南開発が進展した(※1)。魏晋南北朝時代は文化的にも栄えた。書聖の王羲之楷書を芸術化し、シルクロードでインドと繋がる北朝では仏教が栄え、南朝では老荘思想が貴族の間で流行した。日本に仏教が伝来したのは、500年代に朝鮮半島を経由してである。老荘思想の流行要因は、激しさを増す政争に疲れた南朝の貴族層が世俗から身を引くことで保身を図る思想を求めたからである。

※1:長江流域(江南)の開発は、人口増大のために必要不可欠であった。なぜなら、長江流域は、黄河流域よりも農業生産性が高いからである。2点補足する。第一に、関東農政局の資料によれば「まいた種の量と収穫した量を比較すると、15世紀の頃、小麦は約5倍、これに対して稲は20倍以上もありました。現在、稲は130倍前後となりましたが、麦は24倍程度」であり、稲作は麦作より農業生産性が高い。第二に、麦作と稲作の地理的境界は、年間降水量1000mmのチンリン・ホワイ線として知られ、ちょうど長江と黄河の間に引かれている。ゆえに、歴史的に見ても、中国の人口増大のためには、長江流域の農業開発が鍵となる。

 隋(581年 – 618年、都=大興城(西安))が589年に中国を統一し、律令による中央集権国家を建設した。門閥貴族による高級官僚独占を排するため、官吏任用のための学科試験・科挙が開始された(※1)。しかし、蔭位の制により骨抜きにされ、貴族は政治の実権を握り続けた。また、長江と黄河を結ぶ大運河が建設され、江南の穀倉地帯と政治の中心である華北が結合した。大運河建設は、中国南北の経済的統一を成し遂げた点で意義深い。しかし、高句麗遠征、大運河建設は社会を疲弊させ、わずか40年ほどで隋は滅びた。短命な政権であったが、聖徳太子遣隋使の時代と重なるため、隋は日本にて有名である。

※1:科挙は貴族の影響力を削ぎ、優秀な人材を登用するために始められたのである。ただし、親の力で階級が決まる制度が併用されたために、骨抜きとなった。この状況が変わるのは、五代十国時代を経て貴族が没落し、皇帝の目の前で行われる試験(殿試)が始まる宋の時代からである。

 唐(618年 – 907年、都=長安(西安))が隋の官僚だった李淵によって618年に建国された。その息子・李世民(太宗)は、628年、中国を統一し、300年に渡る統一国家を建設した。律令国家建設にあたり、官僚たちが用いる書体確立に迫られ、太宗が愛好していた王羲之を基礎に欧陽詢らによって楷書が洗練されていった。楷書では、唐中頃の顔真卿も有名である。太宗の治世は貞観の治と讃えられた(※1)。

 唐は、はるか西方にも領土を広げ、ユーラシア大陸東部の大部分を支配する大帝国に成長した。751年には、バグダッドに都をおくイスラーム帝国・アッバース朝タラス河畔にて直接交戦に至った。西域との経済的交流を深めたため、国際色豊かな帝国となった。このときに築かれた国際秩序が冊封体制である。これはヨーロッパ式の主権国家体制と異なる。有徳の中国皇帝に臣下の礼をとり、中国皇帝はその恩恵として返礼品を贈るため、中国を上位、他国を下位とする国際秩序である。シルクロードと繋がった長安は100万人の都市として繁栄し、貴族による文化が栄えた(※2)。詩人としては李白杜甫が有名である。

 6代皇帝・玄宗楊貴妃(※3)を寵愛し、安史の乱が発生した。この後、中央集権的な律令体制は崩壊へ向かい、辺境に置かれた節度使が国内にも置かれ、軍事と財政を握り藩鎮として強大化した。874年、黄巣の乱が発生し、唐の衰退は決定的になった。894年を最後に、日本から遣唐使が来航することもなくなった。

※1:貞観の治を実現した太宗の言行録である貞観政要は帝王学の基本書となった。貞観政要は徳川家康も参照したという。

※2:794年から1869年まで日本の首都であった平安京も、長安を参考に建築された。

※3:君主を惑わし国を傾けるほどの美女を傾国の美女という。「國破れて山河在り」から始まる杜甫の春望は安史の乱での自らを歌う他、中島敦の山月記(Wikipedia青空文庫)も玄宗皇帝の治世に官僚になった李徴の話である。

五代十国時代

 五代十国時代(907年 – 960年)、藩鎮を起源とする王朝が乱立した。この時期に武人勢力が台頭したことで貴族は没落した。

 宋(960年 – 1279年、北宋の都=開封、南宋の都=臨安(杭州))は、中国を統一し、文治主義を取った。官僚を学科試験・科挙で選ぶ体制を強化し、軍を文官の下に設置し、節度使を廃止した。社会的には、貴族や武人勢力が一掃され、地主層が科挙を通じて官僚になった(※1)。官僚は学力試験で選抜され、世襲されることはなくなった。貴族が権力を独占する社会から、庶民の政権中枢への参加が許される社会になった言える。一方で、貴族の消滅は皇帝専制の強化を意味した。経済的には、黄河と長江を結ぶ大運河の結節点・開封(東京開封府)に都が置かれ、江南の生産力を基礎に経済発展が進み、200年ほどで人口は4〜5倍になり1億人を突破した。技術的にも、黒色火薬、活字印刷、羅針盤の三大発明が発展した。印刷のために宋朝体と呼ばれる活字が生まれた。

 しかし、軍事的には、節度使廃止のため弱体で、異民族の圧力に晒された。1126年、による靖康の変(※2)では、首都・開封を金に占領され、臨安(現在の杭州)での王朝再建を余儀なくされた。臨安で成立した宋を、南宋と呼ぶ。その後、1206年にチンギスが作ったモンゴル帝国は、1234年にオゴタイが金を、1276年にフビライが南宋を滅ぼした。

※1:科挙の最終試験は、皇帝の目の前で行われる試験(殿試)である。上位より3名はそれぞれ、第1位が状元(じょうげん)、第2位が榜眼(ぼうがん)、第3位が探花(たんか)と呼ばれ、高官としての将来が約束された。今の中国でも大学入試のその地方における成績最優秀者を状元と称賛する。

※2:靖康の変は中国史における最も衝撃的な事件のひとつである。1126年、金は開封を攻め落とした。そして、金は皇帝上皇と、女性数千人を拉致し、宮廷の財宝を略奪した。女たちは、金にて妻妾となるか、一部は洗衣院に下ろされ娼婦となった。臨安に成立した南宋では、主戦派の岳飛が金との対決を主張したが、金と通じた秦檜によって謀殺された。秦檜は、現在も売国奴の代名詞となっている。

 元(1271年 – 1368年、都=大都(北京))は、モンゴル帝国のフビライが国号を中国風に改めたことによって成立した。1276年に宋を滅ぼして、中国を統一すると同時に中央アジア、中国、朝鮮半島、ペルシア、ロシアを支配下に収め、ユーラシア大陸に政治的統一をもたらされた。首都は現在の北京、当時の大都である。ユーラシア大陸の政治的統一はパクス・モンゴリカと呼ばれ、第一次大交易時代(※1)と呼ばれる東西交流の繁栄がもたらされた。第一次大交易時代、イタリア・ヴェネツィア出身のマルコ=ポーロは大都を訪れ東方見聞録を記した(※2)。

※1:第一次大交易時代は、モンゴルによるユーラシア統一がもたらした東西交流の時代である。第二次大交易時代とは、ヨーロッパによる大航海時代がもたらした東西交流の時代である。大航海時代のみを言及することは西洋中心史観であると批判され、「大交易時代」という表現が使われている。

※2:東方見聞録には、中国大陸東方に黄金を産出するジパングという島国があると記され、Japanの語源となった。

 明(1368年 – 1644年、都=南京→北京)が、1368年、南京にて創始され、江南に首都が置かれた初めての統一王朝として始まった。漢や唐の繁栄が目指され、農業重視政策が採られた。ここにはモンゴルに苦しめられた漢民族の復興という意味合いがあった。初代皇帝・朱元璋海禁を実施し、民間の海上貿易を禁止した(※1)。3代皇帝・永楽帝は皇帝専制体制を築くため、皇帝の詔書の起草にあたる最重要官庁・中書省を廃止し、皇帝を補佐する直属機関として内閣を設置した。この内閣はイギリス政治用語Cabinetの訳語になった。永楽帝のとき、首都は北京に遷され、紫禁城が造営された。永楽帝は文化振興も行い、古今の図書を収集した永楽大典は22,877巻にも及び、世界最大の百科事典とされる(※2)。印刷するための活字であった宋朝体はさらに様式化が進み、現代日本の書籍で多く使用される明朝体となった。明代に成立した物語では『三国志演義』『西遊記』『水滸伝』『金瓶梅』の四大奇書が有名である。

 明は16世紀中頃から北虜南倭に苦しめられた。元の残党勢力が北方から圧力をかけ、海禁政策への反発で海賊行為を働く倭寇が南方を荒らした。北方については万里の長城の修復で対応し、南方については海禁政策の緩和(1570年)で対応した。なお、1550年代の(後期)倭寇は、中国人が主体だったが、戦国時代で戦乱に慣れた日本人が指導者となることも多かった。万暦帝の時代、外国製銀が流入し経済的には好況に湧いたが、万暦帝の奢侈と政治的無関心、東林派官僚と宦官の対立、抗倭援朝戦争(※3)などで明の衰退を招き、『明史』では「明朝は万暦に滅ぶ」と評された。この間、明はヌルハチの強大化を阻止できなかった。

※1:海禁においても、朝貢貿易は認められていた。特に、永楽帝は、鄭和の大艦隊を編成し、朝貢貿易を積極的に推進した。鄭和はイスラーム教徒の宦官で、2万人を率いて大艦隊を指揮し、最遠でアフリカ・ケニアにも航海した。鄭和の大航海は1405年から1430年にかけて7度実施された。

※2:永楽大典は22,877巻にも及ぶ長大な書物だが、貯才の地と言われた翰林院の学者2000人が動員され、永楽大典はわずか5年で記された。

※3:1590年代の抗倭援朝戦争(朝鮮:壬辰・丁酉の倭乱)は万暦の三征に数えられる。これは日本では豊臣秀吉の朝鮮出兵と呼ばれる。豊臣秀吉の裏で、ヌルハチは1589年に建州五大部を統一した。ヌルハチの国はマンジュ・グルン (満洲国) と呼ばれた。ヌルハチは後金(1616年 – 1636年)を創始し、後金は1636年に清と改称した。豊臣秀吉が明を弱体化させ、その裏で満州族の清が力をつけ、清が明を滅ぼし、清滅亡後に日本が傀儡国家・満州国を築き、中国が日本に勝利するというのが歴史の大きな流れである。

 清(1636年 – 1912年、都=盛京(瀋陽)→北京)の満州族が、1644年に北京を占領し、中国支配を開始した。康熙帝(在位:1661年 – 1722年)、雍正帝(在位:1722年 – 1735年)、乾隆帝(在位:1735年 – 1795年)と賢帝が続き、清は全盛期を現出する。宋、元、明と1億弱だった人口は、百数十年の間に3億にまで増大した。乾隆帝は古今の書籍を儒学、歴史、諸学者の説、文集の4つに分けて収集させ、3.6万冊10億字もの四庫全書を編纂させた。清代に成立した物語としては『紅楼夢』『儒林外史』が有名である。

 清は伝統的な冊封体制をとって対等な外交関係を認めなかったが、1700年代中盤に産業革命を迎えたヨーロッパは中国に対等な自由貿易を迫った。1840年、イギリスとアヘン戦争を戦い、自由貿易を実現した。その後、清は衰退していく。対内的には太平天国の乱、対外的には英仏とのアロー戦争を戦い、疲弊した。1884年清仏戦争でベトナム、1894年日清戦争で朝鮮の宗主権を失い、伝統的な東アジアの国際秩序である冊封体制が崩壊した。1900年義和団の乱を機に列強に宣戦布告するも敗北し、清は北京の外国軍駐留を認めることになった。この過程で、中国は列強によって租借地、鉄道敷設権・鉱山採掘権などの利権獲得という形で侵略されていった。洋務運動、変法自強、光緒新政といった改革がなされたが、清の立て直しは失敗した。

 1911年、各省が清からの離脱を相次いで表明(辛亥革命)し、1912年3月、最後の皇帝・溥儀が退位し、2000年を超える中国皇帝の歴史は幕を閉じた(※1)。

※1:皇位継承者として生まれ、紫禁城・太和殿で皇帝に即位し、辛亥革命で帝国を失い、一般市民として亡くなった溥儀の生涯は映画『ラストエンペラー』に描かれている。

中華民国

 中華民国(1912年 – 1949年、都=南京)(台湾 1949年 – 現在、都=台北)が1912年に孫文がによって建国され、アジア初の共和制国家が出現した。しかし、最高権力者の座を袁世凱に奪われ、再び混乱は続いた。1921年、孫文は広州に中国国民党による新政府を樹立し、同年、陳独秀中国共産党を組織した。当初は共闘したが、孫文の死後、国民党の蒋介石が共産党を排除し、国共は分裂し、第一次国共内戦となる。1931年、日本は満州事変を起こし、清最後の皇帝・溥儀を執政に据えた満洲国を建国した。1937年からは日中戦争へと発展し、国民党と共産党が抗日民族統一戦線を組織し、再び共闘の時代を迎える。第二次世界大戦が終結すると、国民党と共産党による第二次国共内戦が勃発した。1949年、中国国民党率いる蒋介石は中華民国の台湾移転を実行した。

※1:中華民国の台湾移転にて、清王朝の美術品は台湾に移送された。現在、台北の故宮博物館で鑑賞することができる。

中華人民共和国

 中華人民共和国(1949年 – 現在、都=北京)が、1949年、中国共産党の毛沢東によって建国された。1978年より中華人民共和国の鄧小平が市場経済を導入する改革開放を行い、1992年より江沢民社会主義市場経済を打ち出した。2001年、中華人民共和国は米系投資銀行大手ゴールドマンサックスによって成長著しいBRICsとされた。2010年、中華人民共和国は、日本のGDPを抜き、世界第2位の経済大国となった。2030年ごろにはアメリカのGDPを抜き、世界第1位の経済大国になると言われている。

 歴史を振り返れば、中国の経済成長は必然に見える。超長期の経済推計で有名なアンガス・マディソンによれば、500年前、中国は世界経済の25%を占める経済大国だった(1500年)。200年前には世界経済の30%を超えている(1820年)。それが100年前に10%を切った(1913年)。2022年現在、中国のそれはまだ20%に過ぎない。(出典:世界経済史概観 紀元1年~2030年

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